十 仔猫の咆哮

 2001年5月。伊角は所属していた九星会が中国棋院との親善試合を行うのに同行し、中国へと来ていた。
 昨年のプロ試験に落ちてから塞ぎ込み、院生もやめ九星会もやめ、全てを放り出そうとまで思ったが、空っぽの自分に残ったのは囲碁への執着だった。プロになるだけの力は十分あると言われてきた。しかし何度でも試験には落ちた。だからこれ以上何をどうすればよいかが分からない。何もできることはない。夢を諦めようとまで考えた。でもそれでも、どうしても囲碁から離れることができなかった。
 そんなときに九星会から連絡を受け、伊角は親善試合への誘いを快諾した。もう院生でもいられない自分にできる新しい何かだと感じたからだった。
 最初こそ2泊3日の滞在の予定だったが、趙石に対する敗北を経て単身中国に残り、楊海との出会いと彼の計らいによりプロ試験までの2ヶ月間を中国棋院で過ごすこととなった。


 懸念のうちの一つはのことだった。プロ試験の新藤との対局に負けて以来、とは会っていない。会いに行かなかった最初の一回は、ただ会えるような精神状態ではなかったからだった。一週間後の日曜日、意地で自分を取り戻した後の二回目、約束でもない恒例を放り出したのは、彼女に会わせる顔がなかったからだ。会いに行く勇気がなかったからだ。だって約束すらしていなかったのだから。
 プロ試験直前、にあんな言葉をかけてでも会いたいと申し出たのに、自分の心が揺れて簡単に彼女との時間を放り出してしまった。そんな自分が恥ずかしくて、一度不義理をはたらいた自分をそれでも彼女が待っていてくれるのか自信がなくて、あの場所を見に行く勇気が出なかった。
 二回を無にしたらもう取り戻せない。会わない回数を重ねれば重ねる程にとの時間が遠のいた。それでも、プロになったらそのときこそ胸を張って、彼女にまた会いに行けるだろうか、会いに行きたい、謝りたい、そんな思いを抱えて試験に挑み続けた。彼女の連絡先こそ知らなかったが、日本棋院近くに住む財閥の家という足がかりがあったから、本気で探せばきっと見つけることができるだろうと、考えるともなしに考えていた。
 伊角のプロ試験不合格という結果によって、ささやかな願いは潰えることとなるのだが。
 その後は当然、には会いに行けるわけがなかった。そして塞ぎ込み、全てに絶望し、一度は夢を諦める瞬間に肉薄したが、それでも伊角は碁をやめられなかった。
 碁をやめることはと永遠に別れることに等しかった。二人を繋ぐ絆は囲碁だったから。しかし現在伊角は、今年のプロ試験に挑む──いや、プロの世界に乗り込む覚悟をもって碁に取り組んでいる。だから、つまり、そのときこそ、にまた出会う権利を得られるのだ。
 けれども。
は、こんなオレのことを覚えていてくれるのかな…)
 愛想を尽かされてもおかしくはないだけのことをした。というより、するべきことをしなかった。確かな約束をする勇気もなくなあなあにして時間を過ごしてきて、そして最後に全部投げ出した。あまつさえプロにもなれなかった。こんな自分をはまだ想い、いつものあの笑顔で出迎えてくれるのか──。伊角にはその自信がなかったのだった。

* 

「いら立ち、焦り、不安、力み、緊張、プレッシャー……。つきまとう感情に振り回されるなっ。キミにとって一番大切なことだ。石だけを見ろっ。これは自覚と訓練でできるっ。
 元々の性格なんて関係ない。修得できる技術さ、こんなもん。」
 感情のコントロールは修得できる技術だ。楊海のその言葉は伊角の脳天をかち割る衝撃だった。
 その言葉を胸に伊角は劇的に変化していく。けれどもやはりそれは、一朝一夕で身に付くような技術でもなく。大幅に進んでは少し戻りを繰り返しながら、伊角は中国棋院での日々を有意義に過ごしていた。
(中国の棋士たちにも時々勝てるようになってきたけど。果たしてこの調子を土壇場でも出せるものか…。)
 不安は確かに残るが、伊角は脱出の糸口を確かに捕まえていた。
 午後の対局を終え、棋士たちで居残る者、それぞれの部屋へ帰る者と出てきた頃。伊角は対局室の隅、電話機の前の楊海から声をかけられた。
「名前、よく聞き取れなかったんだけど。女の子かな。伊角君宛。」
「オレに?」
 伊角はお礼を言いながら受話器を受け取る。母親かと一瞬思うが、「名前がよく聞き取れない」という事態になるだろうか? そもそも「女の子」と呼べるような年齢でもないのだし。するとそこで「女の子」の知り合いに意識が向くが、わずかに浮かんだ可能性を伊角は自ら打ち消した。そんなはずがない。二重の意味で。
『────……』
 受話器の向こうから届くか細い声がやはりよく聞き取れない。電波が悪いのだろうか? と心に浮かべつつ、伊角は丁寧に問い返した。
「すみません、よく聞こえなくて…。どなたですか?」
 そして電話口で弱々しい声で告げられた名に、伊角はたいそう驚くことになる。
『…です…』
!?」
 声は確かにそう言った。聞き違えるはずがない。
 それは初めて耳にする少女の声だった。伊角がと交友を持っていると知る人物はいないわけではないが、今聞いた声は奈瀬のものではなかった。伊角の知らない他人がであると騙るメリットもないだろう。だから、つまり、この声の主は本人であるということ。
、声……。無理するな。」
 伊角は真っ先に浮かんだ発想を口にした。声は迷わずに続いた。音量こそ小さく弱々しくはあったが、鈴の鳴るようなかわいらしい中に確かな強い信念を湛えた声だった。
『しんいちろ…に、会いたい! です…』
 想いを告げる声に、伊角は愕然として立ち尽くす。空っぽの心に一つひとつが重く落ちて染みた。
『またいっしょ、打ちたい』
『碁、やめないで…』
『碁を打つ慎一郎が一番好き』
 伊角は何と言って返せばよいのかがすぐには分からなかった。初めて聞く声ではあったが、言葉は確かにのものなのだと実感できた。心に染み渡った想いを反芻して、広い荒野の中から返すべき言葉を探して声に出す。
、ごめん…。おまえに会うのをすっぽかして、何も言わずにいて。」
『ん…。いい、の』
 たった一言で伊角は全てを許される思いだった。けれども、まだ足りない。まだ言うべきことがある!
「でもオレ! またがんばろうと思うんだ。オレは碁をやめない。だから、に見守っていてほしい。そしてこれから一緒に、何十局何百局もも打とう。オレに付いて来てくれないか。」
 これが、伊角に見せることができる精一杯の誠意だった。自分の背中を支えてくれたに、こんな形でしか報いることができない。それしか方法を知らない。それしか生き方を知らない。返ってくる答えへの不安はあるものの、言えるだけのことは言い切った。そして伊角がの声を待っていると、代わりに聞こえてきたのはか細い嗚咽だった。
「泣いてるのか!?」
『よかった…』
 と、それだけ、震える声ははっきりと言った。
「オレ、に会いに行くよ。プロ試験までこっちで修行して、自信を付けて日本に戻る。プロとしておまえに会いに行く。
 だからそれまで待ってて。」
 うん、うん。そこには声による言葉がなかったが、が頷いたのが確かに分かった。



 懸念が一つ解消された伊角はまた一つ強くなった。階段を一段上ることができたようである。
 夜、楊海の部屋で休みながら、伊角は手帳に忍ばせたプリクラを眺めていた。と一緒に以前撮ったものである。ニコニコと楽しそうに笑うと、その隣でカメラを前にぎこちない様子の自分が写っていた。
、待っててくれ。次に会うときはプロとして、おまえの前に立つから。)
「その子が電話の子?」
 風呂上がりの楊海が伊角に声をかけた。
「はい。っていいます。オレが日本で碁を教えてあげてる子です。」
 他愛のない世間話として伊角もそこそこに答えたが、次の楊海の発言が大問題だった。
「彼女? 付き合ってるの?」
「やめてください!!」
 途端に伊角は激昂し、声を荒げた。
「本人に失礼です。それには小学生なんですよ。そういう話はまだ早い。」
「…………。ごめん。」
 普段は温厚な伊角の怒声に気圧され、楊海はしゅんと肩を落として謝った。しかしすぐに気を取り直して会話を立て直す。
「碁、教えてあげてるんだ? 打てる子?」
「彼女が碁を始めるときに出会って、ルールからオレが教えました。プロとか、院生とかいう程ではないんですが…。上達が早いです。何より本人にやる気があるし、まだ若いからかどんどん吸収していくんです。時々はっとするような手を打たれてびっくりします。教えていて本当に楽しい、これからの成長が楽しみだ。」
 伊角は長い文章を一息に言い切った。心に浮かべたはいつものようにころころと元気に動き回っている。そんな彼女との思い出を語るのに淀みはなかった。
「よかったら対局を並べましょうか!? 会心の一局があって──」
 返事も待たずにいそいそと碁盤を取り出す伊角を見て、楊海はほほえましくなりつつ思うのだった。
(楽しそうに話しちゃってまあ。)
(プリクラを見てるときの優しそうな目。あの目を向けておいて好きじゃないなんて笑い話だぜ)

「伊角君はここに来てからぐんと強くなったから、日本に帰ってまた会ったら、ちゃんも驚いて喜ぶに違いない。」
「そうですか!?」
 伊角は照れくさそうに、嬉しそうに笑った。にまた会える。そのときの楽しみが楊海の言葉によりぐんと増した。
 プロ試験まであと1ヶ月。