十一 あめつちほしそらに詠ふ声

 2001年7月。今年もまたプロ試験が始まった。
 伊角はもう院生ではないため、外来として予選からの受験をする。予選会場である日本棋院へ向かうと、院生の仲間や院生師範に会うことができた。懐かしい面々に顔が綻ぶ。
 初日の抽選を経て一日目の対局に向かう。
 先のことを考えプレッシャーを感じる自分は確かにいるが、そんな自分を丸ごと作り替えるのではなく、認めて受け入れて、しかし距離を作って第三者のように見つめる。そんなもう一人の自分を心の中に作る。そうして対局に冷静に、平常心で向かう。それさえできれば勝てないわけがない。自分にはそれだけの力がある。自分を信じよう。今まで自分が培ってきたもの、得てきた勝利を。自分の碁を。
 そして、小さな力で自分の背中を後押ししてくれた少女の姿が、心の中にぽつりと浮かんだ。
、おまえの言ったとおりだったな。無理に自分を変えようとしなくても、そのままの自分でよかったんだ。)



 それから3ヶ月後の10月28日日曜日。
 プロ試験本戦、最終日の対局も白星で終え、伊角は囲碁研修センターを出て日本棋院へと急いだ。今日だって約束はしていない。けれども伊角は言ったのだ。プロになってに会いに行くと。だから、そのときの場所は、時間は、いつもどおりのあの場所だ。そこに行けばがいつものように待っていてくれる。その確信が伊角にはあった。
 日本棋院に到着し、階段を上って2階へ。そこにある一般対局室の前のフロアに、女の子らしい服装を身に纏った懐かしい姿があった。は即座に伊角に気が付いた。無垢な表情がこちらを見る。その瞬間二人だけが周囲から切り取られて対面した。伊角に見えるのはさながら神聖な教会に佇む天使である。しかしすぐ直後に彼女の表情はあどけない子どもの満面の笑顔に切り替わり、二人だけの世界は終演した。
 言葉を探しながら、伊角は彼女に歩み寄る。実に約一年ぶりのやりとりだ。
 はすーはーとおおげさに深呼吸をして、そして伊角をしっかりと見つめ、意を決した様子で口を開いた。
「おめでとう!!」
「初めてだな。」
 反射的に伊角は言っていた。それは自分でも予想だにしない言葉だった。
「?」
「声、直接聞いたの。ずっと、こうやって話したかった。」
 伊角を見つめるの瞳が潤む。
「話せるようになったのか? 苦しくないか? オレ、失声症のことはよく分からなくて…失礼なこと言ってたら悪いんだけど。」
 は今度は筆談器に文字を書き始めた。
『こえ出すれんしゅうしたの』
『まだじょうずにはなせないけど』
『しんいちろーに言いたいことがあって』
「何だ? 言ってごらん。」
 拙い文字で言葉を伝えるいたいけな少女に、伊角は大人ぶって問いかけた。
「…………。」
 沈黙。気まずくはない時間が流れてから、は筆談器への記入の後伊角を見上げ、
『会えたらぜんぶふっとんじゃった!』
 という文章と共に、気恥ずかしそうに笑った。
『かっこよくなったね』
「え? そうかな。」
 それからがそんなことを書くものだから、伊角は照れてしまい、頬が赤くなる。彼女のその発言に込められた熱意を感じ取ることもなく。彼は照れくさい思いでただ「ありがとう」と返すだけだった。
 他愛ないやりとりを交わしながら対局室に入り、二人は久しぶりの「いつもの時間」を過ごした。その後。いつものように別れの時間がやってくる。
 伊角は対局中からこのときのことばかり考えていた。言うべきことはずっと前から準備していたが、いざ声に出す段になると難しい。彼は言葉を選びながら話した。
「これからは、さ。もう院生じゃないから、毎週日曜日の研修がないんだ。だからいつもみたいに会えない。」
 言葉の途中で、が目に見えて衝撃を受けた。怯まずに伊角はまだ続ける。
「4月から始まるプロの手合いは水・木なんだけど、は学校があるだろ。」
 落ち込んでいた少女の表情が不思議の色に染まり、
「これからは、いつどこで打とうか。」
 は言葉を失って伊角を見つめた。ぽかーん、という擬音がぴったり似合う様子である。伊角はためらいを勇気に変えて言い切った。
はいつがいい? なんだったら学校帰りにでもいいし。ひとまず、来週日曜日は家に来てくれないか?」
 途端にの表情が塗り替えられて歓喜に満ち溢れた。一目で喜びが伝わってくる。は半ば泣きそうになりながらも、うんうんと何度も頷いた。
 それは約束だった。伊角がずっと欲していた、彼女に会うための確約。口実。建前。
 なんだ、こんなに簡単なことだったのか。為してしまえばちっぽけなものだった。それでも、それこそが伊角にとっては最大級に難しいことだったのだ。



 にとっては待ちに待った翌週日曜日。最寄り駅として指定された駅に向かうと、改札口で伊角が待っていた。待ち合わせの場所が違うだけで、こんなにも雰囲気が違う。は新鮮な気持ちでわくわくしながら、彼と一緒に歩き始めた。
 伊角の家への道中様々な話をした。の言葉は主に筆談により表されたが、短い相づちなどはなるべく意識して声で出すようにしていた。
 昨年のプロ試験でのこと。伊角の友達のこと。日常生活のこと。中国でのこと。碁についてのこと。会えなかった一年の間のこと。話すことが後から後から出て来て止まらなかった。
 そして伊角家に到着した。は一般庶民の、しかも好きな男性の家に招待されるなど、初めての体験であったため緊張しきりである。
 優しげな両親、元気な兄弟に挨拶をしつつ、伊角の部屋に通された。こぢんまりとしていた。当然ながら使いやすい位置に碁盤(の所持するものよりずいぶんと物が良さそうなもの)が置いてあって、は何だか安心して嬉しくなってしまった。
(慎一郎らしい。)
「じゃ、打とうか。3子でいいかな。」
『つよくなったわたしを見せたい』
「じゃあ、お互い披露だな。オレだって中国で修行して強くなったんだぜ。」
 黒石を星に3つ置いてから、お互い礼をして対局を始める。手を打ち合う中で、は幸福を現実のものとして確かに噛みしめた。
 幸せ。幸せだ。慎一郎とまた会えて、好きな時間を共有できるなんて。
 言葉少なに石を打ち付ける音が間に響き、一手一手で会話する時間が、はとてつもなく好きだった。
「……?」
 伊角が優しげな瞳でに問いかける。は盤面ではなく対局者の伊角を、ぽーっと見つめてしまっていた。
 優しい優しい慎一郎。そんな彼がわたしは大好きだ。あなたにも大切に思ってもらえてるって、うぬぼれてもいいかな。
 彼の部屋にふたりきり。今が絶好のチャンスだ。言うって決めたんだから、言わなくちゃ。後悔しないためにも。
 けれども言葉は、声は喉に引っかかって出てこず、はあーうーと頭を抱えた。
(言いたいのに言えないなんて。わたしらしくない。)
 気持ちは溢れて止まらない。なのにそれを分かる形で外に出すことができない。 
 伊角は何事か悩む様子のそんなを見て、我知らず(かわいい)と思い和むのだが、当然本人はそれには気付かず葛藤と戦い続ける。
 しかして声はふいに放たれた。
「慎一郎が好き」

「え? オレものこと好──」
 伊角は一瞬戸惑った後、何気なく「同じ」ことを言って返そうとするが、皆まで言わせずにはぶんぶんぶんと首を振って否定する。そしてじっ…と伊角を、強くまっすぐな、対局に挑むときの目で見つめた。
「え…」
 伊角のそんな気の抜けた声だけが静かな場に残り、二人は沈黙する。そこまできて初めては、空気の意味するところに気付いてしまった。もしかして、わたしは、言っちゃいけないことを言っちゃった?
。」
 伊角がの名前を告げた。彼女の肩がびくんと跳ねた。
「オレへの気持ちはきっと、先生に対する憧れみたいなものだ。はまだ幼い。これからたくさんの人に出会って、それで恋をしていくんだ。軽率に決めちゃいけないよ。」
 真面目な表情。真摯な声。それはの大好きな慎一郎そのものだった。けれども発した言葉はにとってはただの死刑宣告である。
 そして伊角は心から気遣うみたいに言うのだった。
「焦らなくていいから。」
「…………!」
 の頭は真っ白になった。ただ無言で伊角を見つめた。
 それから、あまりに真面目で優しい慎一郎に、どうしてか、憎しみが湧いてしまった。もう少しが大人だったら彼の気持ちを察して慮ることができるのだろう。けれども今の彼女は声が、言葉が、想いが彼に通じさえしなかった事実で胸がいっぱいで、悔しくて悲しくてもどかしくて、非の打ち所のない彼を愛情の裏返しで憎まないではいられなかった。どうして、あなたは、こんなときでさえも、こんなに。
 感情が激流となっての心の中で暴れているのに、声として表現することはできなかった。つらくて、つらくて、声すら出なかった。
 は暴れる感情を込めて伊角を、きっ! と睨み付けることしかできなかった。すると伊角はやっとの変化に気付いたようで慌てる素振りを見せるが、声にしてしまった言葉は今更取り下げることなど無理である。事実だけがその場に残る。伊角がを拒絶したという事実だけが。
 は大好きな彼の弁解も待たずに、その場を飛び出した。



 それからの一週間、は茫然自失の日々を送った。碁石に触れもしなかった。
 わたしって慎一郎にとってどうでもよかったんだ。どうでもよかったのかな…。あの時間はうそだったの? それともわたしの思い込み?
 好きな人に(たとえ恋人がいなくとも)思いが通じるとは限らない。たったそれだけの現実を受け入れることができる程、は大人ではなかっったのだ。