十二 サンドバッグ一郎君

 毎週土曜日に和谷宅での研究会が予定されていた。伊角はなんとか気力を振り絞って参加はしたものの、当然ではあるが心ここにあらずである。靴を脱いでぼーっと立ち尽くしていたら和谷に顔をしかめられた。
「どうしたの伊角さん。」
「いや…別に。昨日眠れなかったからかな。」
 苦笑と共に半分真実で返す。その後気を取り直して入室し、他の面々を待つ間に早碁でも打とうということになって、伊角が対局時計を持て余していたらまたも和谷に突っ込まれた。
「本当に、どうしたんだよ伊角さん! ぜんっぜんやる気ねえだろ!」
「やる気はある! でなきゃ来ない。だけど…」
「だけど?」
「…………。」
 碁盤の向こうから和谷の瞳にじっと覗き込まれ、伊角は観念して口を開いた。肩を縮こまらせて下を向き、ぼそぼそと言い訳をする子どものように呟く。
に告白された。」
 適当に理由を付けてでも研究会を休むべきだったと後悔した。彼は嘘を付くのが苦手で下手である。こんな精神状態で和谷宅に来てしまった時点で、こうなることは確定していたのだ。
「やっとかー! だめだろ伊角さん、そういうのは男から言ってあげなきゃ。」
 伊角の無意識下の予想に反して、何もかもお見通し、といった体で笑う和谷。伊角は思わずむっとして、声を荒げて返した。
「なんでオレが!」
 しかしすぐに言葉を飲み込み、幾分かの冷静さに切り替えて続ける。
「断った…っていうか、それ以前の問題で、を諭したよ。」
「は?」
「オレたち歳の差あるし、勘違いしてるだけだって。上手の人間に対するただの憧れだって。」
「えーっありえなーい。」
 そのとき場に投げ込まれた第三者の声は奈瀬のものだった。彼女は続けて語りながら入室して来た。すっかり流れを把握しているようである。
「女の子が告白するってすごく勇気のいることなんだよ。それをろくに取り合わない? なんて。」
「そんなつもりじゃ」
 反射的に返した声は千切れて途切れる。伊角は必死に続きを寄せ集めて言った。
「オレはただ、のことを思って。」
「伊角くんが、ちゃんにその気がないなら振ればいいわ。正面から振ってあげるのも誠実な返事よ。」
 一方の奈瀬の語調は伊角のそれとは打って変わって強かった。
「でもそんな、まだ小学生だからだめだ、もっとよく考えてなんて…」
 一言ひとことを言い聞かせるように。
「思いを否定したも同じよ!」
 ぴしゃりと放ち。
「小学生って、男の子よりも女の子のほうが大人なのよ。」
 諭すように結んだ。
「…………。」
 もはや返す言葉もなく黙り込む伊角に、横から和谷が尋ねた。
「小学生だからだめって、歳いくつ?」
 伊角はその質問に対しては機械的に答えた。
「オレの7つ下だから…12歳、6年生だ。」
「そんなの、来年には中学生じゃない!」
「それでもダメだろ…」
 蚊の鳴くような声は精一杯の伊角の反抗だった。
「だったらいくつからならいいの? その線引きってどこにあるの?」
「…………。」
「伊角くんはどうなの? ちゃんのこと好き?」
「まだは──」
 伊角は二つ目の質問にはなんとか答えようとした。しかし即座に出て来た言葉を奈瀬がぴしゃりと糾弾した。
「そういうの抜きで!」
 伊角はうっと言葉に詰まった。そして真面目な彼らしく、目の前に与えられた質問に真摯に答えようと思考を始める。果たして自分は彼女を、のことを好きであるのかどうか。
「これまでそんな対象として見たことがなかった。第一、恋愛とか、興味ないし…今のオレには碁が全てだから。」
 真っ先に出て来たそれが真理だった。しかし、けれども、自分のへの想いはそれだけでは片付けられない。語りは続いた。
「だけどは、オレにとっては、囲碁ばかりでつまらない人間のオレに付き合ってくれる、大切な友人で…。放っておけない妹みたいな存在で…。どんな話でも楽しそうに聞いてくれるし、自分じゃ声で話せないのに、精一杯文字を書いて話そうとしてくれる。に碁を教えることで、オレも大切なことを彼女から教わっていたんだ。」
 最終的には滔々と話す伊角を前に、和谷と奈瀬がこそりと目を見合わせた。その後和谷は伊角に向き直り、
「あのな伊角さん。」
 と前置きしてから話し始める。
ちゃん、去年のプロ試験が終わった後、伊角さんに会えない間、一般対局室で伊角さんを待ってたんだよ。オレは毎週棋院に行ってたわけじゃないけど、あの様子じゃたぶん毎週来てた。」
「私も院生研修の後、何度か見かけたわ。」
 その言葉を聞いたときの伊角の表情を見て、和谷がそら見たことかと声を上げた。
「今喜んだだろ! それが答えじゃねえかなあ。」
「だけど……」
 尚も渋る伊角に、和谷が軽口として言った。
「じゃあオレがもらっちゃおうかな〜。ちゃんかわいいし。」
「和谷っっっ!!!」
 狭い室内に伊角の怒鳴り声が響き渡る。彼としては反射的にしかしだからこそ本気で激昂したつもりだったが、和谷はもちろん奈瀬にも何ら響かなかったようで、彼らの表情は変わらなかった。真顔でただ淡々と言うだけである。
「好きでもないんなら怒るのはズルい。」
「…………。」
 伊角は黙った。
「仮に、ちゃんの気持ちが憧れとか嘘だったとして、本当のことを言ってあげたんならそれでいいじゃん。なんでそんなに落ち込んでるんだよ。」
「…………。」
 尚も黙る。
「好きならとりあえず付き合っちゃえばいいじゃない。」
「そんな無責任なことできるか!」
 奈瀬の発言にようやく隙を見つけて反撃するも、それを物ともせず無傷の奈瀬はしれっと言った。
「伊角くんに嫌気が差したら向こうから振ってくれるわよ。女の子は何も考えてないわけじゃないんだから。
 ちゃんが大人になっても関係が続いていたら、ちゃんも本気だったってことじゃない。」
「…………。」
 確かに、二人の言っていることは明らかな間違いではない。だがそれでも伊角にはどうしても、彼らの言うことを善しとすることができなかった。
 だから反論することも納得することもできずに伊角は押し黙るしかなかった。沈黙が一旦その場を支配したとき、部屋の扉が開いて入って来たのは新藤だった。
「新藤、ちょうどいいわ。あんたからも伊角さんに言ってやって。」
「えっ何のこと?」
 奈瀬とは違って新藤は入るなり場の状況を掴めたりはしないようである。突然発言を要求されて目を白黒させていた。
「伊角さんがちゃんに告白される。落ち込む。相手は子どもだからって告白全否定。そのくせ自分は碁も打てないくらい落ち込んでんの。」
 淡々となされた和谷の説明はあまりにあまりな言いようだった。それにより伊角は殊更ダメージを受け、堅く身を縮こまらせた。しかし新藤の意見は気になったので意識を反らすことができない。
 三つの視線を集めた新藤はあっけらかんと言い放った。
ちゃんと付き合うのはまずいだろー! だって相手は小学生だぜ? それじゃロリコ──」
「新藤ッ!!」
 和谷と奈瀬の声が揃って新藤を制した。びくりと身を竦ませた新藤は「オレなんかまずいこと言った?」と不服な様子である。
 ロリコン。ロリコン。幼児性愛嗜好。新藤に言われた直接的な言葉が伊角の脳内を駆け巡る。
 際限なく落ち込む伊角を目にして、和谷が冷静に指摘した。
「伊角さんさあ。落ち込むってことは新藤の言うことが当てはまってるってことだろ? 違うなら堂々としてりゃいいじゃん。いい加減認めろよ。」
「オレはロリコンなんかじゃ──」
 咄嗟に返した言葉には意味がない。そんなことはよく分かっている。だから力弱い声しか出なかった。
「小さい子が好きなわけじゃないのは分かるわよ。ちゃんが特別に好きってこと。
 伊角くん、ずーっとぐだぐだ言ってるけど、結局人の目が気になって素直になれないだけみたい。」
 伊角には最早言い逃れはできなかった。散々二人から揉まれて追い詰められて、事実を認めざるを得なかった。
 好きでないなら断ればいい。それが真理であるのなら、の想いを否定すればいい。それで終わりだ。それができないのだから、しても淀みが残るのだから、答えは最初から一つだった。
「もう今日はいいから。碁になんねーだろ。帰りなよ。」
 和谷が優しげに伊角に声をかける。その姿はまるで年長者のそれだ。伊角は無言で頷いた。
「えーっ伊角さん帰っちまうのか。何、ちゃんに告白されたの? 詳しく聞きたい!」
「新藤は黙ってなさい! ほら伊角くんは帰った帰った。じゃね! 来週、報告を待ってるから。」



(来てない……か。来るわけないよな。)
 「約束」をしていないのだから。
 翌日曜日の15時30分。日本棋院2階、一般対局室前で彼の人を待ち、伊角は拳を握った。
 プロ試験に落ちてから、翌年の春まで、はオレを信じて待っていてくれた。それでも会いたいと思って勇気を出して気持ちを伝えてくれた。出せない声を振り絞って。その事実に自分がどんなに勇気づけられたことか。
 そして今、またも、声は心の内の想いを告げた。いつから秘めていたのかは分からないが、それはきっと勇気のいることだっただろう。──オレにとっての彼女との約束のように。