十三 かえし歌

 空虚な日々を過ごしていた。慎一郎に、囲碁に会う前よりもずっと空虚な日々を。
 こんな結末しか迎えられないのなら、最初から出会わなければよかった。出逢いたくなかった。ただ漫然とした虚しさを抱えて、普通の人の「幸福」を享受していればよかったのだ。
 今日も何をするでもなく、平坦な気持ちでがレースのカーテンの隙間から外を眺めていると、視界の端、正門のほうで影が動くのがちらついた。何の気なしにそちらに視線を落とすと影の正体と目が合った。見紛う余地もなくそれは伊角慎一郎、の心を今も掴んで離さないその人だった。
 は慌ててその場にしゃがみ込んで姿を隠す。なんで、どうして慎一郎が! どきどきと高鳴る胸に手を当てながら、はもはや怯えるように、意味のない無の時間を過ごす。何を考えても考えなくても分からない。慎一郎が家に来た。でも、今更、何をしに? 何のために?
 そうしてただ疑問に苛まれていたら、彼女の意識とは無関係に時間が経過し、部屋の外が騒がしくなった。はふらふらと扉に歩み寄る。人がどたばたと走り回るような気配が感じられて、そのうちの一つの足音が徐々に大きくなり、扉のすぐ向こうまで来て止まった。そして直後にのすぐ目の前で扉が叩かれて音を上げた。
、オレだ! 慎一郎だ! 開けてくれ!」
 それは、今一番聞きたい、会いたい人の懐かしい声だった。



 日本棋院から徒歩圏内にある、財閥…大富豪の家。この条件下での自宅を探すことは特別困難ではなかった。そうして見つけた大豪邸の門前で、伊角は守衛に用件を告げる。門前払いだったが、そのとき豪邸の伊角から見て右奥の部屋の窓にの姿を見つけたのは幸運だった。伊角と目が合うと少女はぴゃっと身を隠したのですぐにそれと判った。その後身を潜め荷物の宅配に紛れて入門し、途中で気付かれながらも何とか捕まらないように走り回り、の自室に到達して扉を叩いた。は様子を察して扉を開けて伊角を匿ってくれた。
「…………。」
「…………。」
 だだ広い豪奢な部屋の中で、と伊角は無言で対峙する。伊角が口を開きかけると、は素早く反応して身を竦ませた。そしていやいやと首を振った。拒絶だ。けれどもは、こうして扉を開けて伊角を部屋に入れてくれた。だから伊角は負けずに言った。ほぼほぼ叫んでいた。
「碁を打つオレが一番好きって言ってくれて嬉しかった!」
 はたと少女が伊角を見る。
「正直、オレは恋愛とかに興味ないし。のこともそんな目で見たことなかった。だから好きって言われてもピンとこなかったんだ。それで咄嗟におまえの気持ちを否定するようなことを言っちまって、ごめんな。でも、」
 伊角もを見る。
が大切だからこそ、おまえの可能性を縛りたくない。やっぱり、はまだ小学生だから、それなのにこんな年上を好き…だなんて、やっぱりまだ早すぎるし、その…年上の男としては、無責任に付き合ったりとかはしたくない。が大切だから。」
「…………。」
はね、自分には夢がないって言ったけど。まだまだおまえは小さいから、これからいくらでも探していけると思うんだ。」
 静かに、黙って、は伊角の語りを聞いていた。今までに何度でもそうしてきたように。今までと違うのは、彼女の積極的な相づちがないということだ。しかしそれはが伊角の言葉を待っているということだった。そんな彼女に伊角は言った。
「一緒に探さないか? オレと一緒に。」
 少女の世界を見通す瞳が揺らぎ、
「そして、オレは碁の道を歩く。これからもずっと。だから、に付いて来てほしいんだ。」
 伊角は彼女と世界に二人きりになって、思いを全て打ち明けた。彼はそうずっと前から、その瞳に心を射抜かれていたのだ。
「────っ……ごめん! これがオレに言える全てです!」
 そのように言葉を締めくくり、伊角は勢いよく頭を下げた。深々と。
 そして顔を上げながら、往生際悪くも続ける。
「こんなオレでも、嫌わないでいてくれるなら…これからも…うわっ」
 言い終わらないうちにが伊角に飛び付き抱き付き、空気混じりのか細い、声にならない声でわんわん泣き出した。伊角は最初こそ涙に愕然とし早く止めなければ、と焦ったが、すぐにその涙の意味するところを察して安心した。
 結局、自分は無責任なだけなのかもしれない。告白から逃げて、なあなあにして。それでも言うべきことは、想いは、の行末を見守る覚悟は、全て言い切った。その上で彼女が悲しみによるものではない温かい涙を流すのなら、その後で笑ってくれるのなら、それが最善の一手であると思ってしまうのだ。
「…………。」
 伊角は無言で、目の前のの頭を撫でる。慈愛に満ちた瞳で。
 約束も、言葉も声もいらない。ただそこに想いがあればそれでいい。



 それからは伊角と、率直に言って穏やかな時間を共に過ごした。いついつに会おうと約束したり、時にはしなかったりして、二人で過ごすことを日常の一部にしていた。
 確かに、の一番欲しかった言葉を伊角はくれなかった。だがそれでもいいと彼女は思っていた。なぜならそれ以上に価値のある、子どもながらに感じ取ったとある確信があるからだ。
 1月には新初段リーグがあり、伊角の相手は桑原本因坊だった。結果は伊角の6目半勝ち。ハンディがあるといえど、圧倒的な上手に対してこの結果は素晴らしい! 興奮しながらが拙い声と言葉で褒め讃えると、伊角は照れながら「でも本因坊も本気では打たなかっただろうから」と謙遜した。慎一郎らしい。


 そして3月。新入段者免状授与式。
 伊角が式典の後の説明会を終えるのを、日本棋院の1階、エレベーターホールでは待っていた。理由はたった一つ。プロになった慎一郎を一刻も早く見たいからだ。
 一階に停まったエレベータの扉が開き、中からスーツ姿の伊角がの前に現れた。
、お待たせ。」
 さりげない笑顔でそう言う様子はいつもよりずっと優雅で大人だ。まるで何年もプロを経験した歴戦の棋士のようにすら見えて。は口を開けたが言葉が出ずに、要するに照れて固まった。
「? ?」
 首を傾げる伊角に対して、はぱたぱたと慌てて気を取り直して声をかけた。
「いすみせんせー!」
「やだな。にそんなふうに呼ばれるなんて。」
 伊角の困った表情が妙に愛おしかった。はへへ、と笑った。
「しんいちろ!」
「うん。今までどおりで頼む。」
 そして自然と2階へと歩を進めようとする伊角を見て、今度はが首を傾げた。
「どうした。今日は打たないのか。門限までには時間があるだろ。」
「いいの!?」
「いいに決まってるだろ。むしろ、せっかく来てもらったのに帰るだけじゃ申し訳ないよ。」
『プロになったしんいちろーを見るためにきたの』
「それだけのためにか? バカだなあ。」
 伊角の「バカだなあ」とその笑い方には愛があった。ように感じられた、のはの思い込みなんかではない。と信じたい。
 それ以前に、彼が当たり前のように「打たないのか」と言ったのが真実だ。プロになっても今までのいつもどおりを壊さずにと過ごしてくれる。当たり前が当たり前として続くことがこんなにも嬉しい。
 慎一郎の言葉を疑うことはなかったが、あのときの言葉は彼の本当の気持ちだったのだと改めて信じられた。
 二人して日本棋院2階の一般対局室へ向かう。そこで始まる時間は、の、だけの、慎一郎との二人きりの時間だ。


 時は過ぎ、の時計のアラームが鳴った。碁の時間が終わってしまうことを残念に思いこそすれ、もうその音は伊角との別れを告げる音ではなかったから、極端に悲しくなることはなかった。
 時計のアラームが鳴った後は、伊角と共にの自宅まで歩くのが恒例だった。いつしか恒例になっていた。初めは確か、冬の時分に外はもう暗くて危険だから、との理由で「送る」と申し出られていたが、春になった今はその必要もないのに行為だけが残って続いていた。伊角と過ごす時間を延長するチャンスをが逃すはずもない。
 夕方の住宅街を二人で歩く。背が高く脚も長い彼のほうが歩幅が広いので、伊角がに合わせる形で二人は大小並んで歩いている。他愛もない会話をしながら。
 は伊角の横顔をちらりと見上げた。こんなふうに彼を独占できるのは、きっと自分だけの特権に違いない。
(碁を打つオレに付いて来てくれって。慎一郎が言った。それって、ずっと一緒にいてくれってことだよね!
 両思いじゃなくたって、それってほとんど両思いってことじゃん。
 わたしの思いを信じてくれなくたって。今は好きって言ってもらえなくたって。一緒にいるうちに、気付かせて、彼女になってみせる!)
 は伊角の手に手を伸ばした。指先が触れると伊角は照れて手を引こうとするが、が指先を引っかけてそうはさせない。戸惑う顔を見上げて、にーっと笑って見せる。そのうち伊角が観念して手の力が抜け、は自分よりずっと大きなその手をしっかり握る。しばらくすると、自然に握り返される。二人で手を繋いで歩く。は満足したがそれは一旦のことで、すぐに物足りなくなった彼女は伊角の手を腕ごと抱え込んだ。
「うわ、わっ、っ!?」
 今度は大っぴらに声を上げて戸惑う伊角はしかし拒絶はしなかった。その頬は赤い。
(これで恋人同士に見えるかな。)
 は一つになって歩く自分たち二人の姿を冬の空気に浮かべて、にんまりとほくそ笑んだ。これが最強の一手なのだ。

 ──わたしがあなたを支えるからね。碁を打つあなたの背中を。
 ずっと付いて行くよ。慎一郎。だから、ずーっと一緒!