No.67
2018/2/24 好きなもの 編集
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現代において「創作」というワードを出すとキャラ設定をして語る活動を指す文化が本当に本当に本当に、どわああああああああいっっっっきらいです。きちんと創作をしている人口はきっと減ってはいないんでしょうけど、キャラ設定の方…うちの子界隈の人の声が大きすぎる。
こう書くと誤解されがちですが、私はうちの子活動を否定する気は<strong>一切ありません</strong>。好きですよーうちの子。自分で見た目や設定を考えて飾り付けたキャラクターです。愛着が湧くのも当然じゃないですか。
だけどそれは創作とは違うものだと思っています。正確に言うなら創作に至る前の準備の段階であると。
キャラ設定はアイデアです。そのアイデアを元に絵や漫画や小説を描いて表現し、作品を作る。その「表現する」「作品を作る」という活動こそが創作活動です。
ただ、キャラクターの設定を「考える」ことにも創造性が課されることは否めません。ですからその活動の時点で創作を名乗る。それもまたよいでしょう。キャラクターの設定を考えた、つまり創作した。それでよし。
ですがその後、その創作した設定を元に、ただひたすら言葉で語り続ける。このキャラはこんな性格で…だからこんな事件があって…こんな人と出会って…。全ては言葉で語られます。作品は作られません。その活動は果たして「創作活動」と呼べるのか?
起点となる作品(設定)を作った後は、何も作らず、ただ言葉で語るだけ。そんな状態は「創作活動をしている」と言うことができるのか?
「キャラ設定を創作と見なすか」という論点は自然数に0を含めるか否かという問題のようなもので、単なる宗教の違いの問題に過ぎないでしょう。本質はそこではありません。
「作品を作らずに言葉で語る」行為が「創作」には当たらない、ということを私は言いたいです。
「言葉で語る(設定する)」行為と「作品で描写する」行為には本質的な違いがあります。決して同一視することはできません。
作者の言葉によって説明された・語られた設定と、作中で描写された事実が食い違うことが起こり得るからです。例えば漫画作品で、設定上は「絶世の美女」とされているキャラがいるとして、けれども描画されたそのキャラの見た目はとても優れたものと評価できない、周囲からの扱いも「美女」にするようなものではない、そんな描写しかされていないというようなことも起こり得ます。これは設定と実際の描写の乖離です。
どちらが優れているか、ということは論点ではないので、読者がこの事実に直面したときに「設定」と「実際の描写」のどちらを受け入れるかは問題ではありません。設定を重視したがる読者もいるでしょう。それは個人の自由です。ただ、両者が乖離している、その事実だけは確固として存在します。
そして私が許せないのが「設定」と「実際の描写」を「創作」として同一視する、現代の文化です。
私個人の宗教としては、創作上で重視されるべき事実は設定ではなく「実際の描写」です。なぜなら「設定」は作者がいかようにでもできる中身のない口約束に過ぎないから。
極端なことを言ってしまえば、小学生のごっこ遊びに過ぎません。「俺が最強の戦士だ!」「俺はそれよりもっと強い最強の最強の戦士だ!」「俺はそれよりもっともっと強い最強の最強の…」何だってできますよね。
しかし作品上の描写はそうではない。設定どおりに描写するには、読者を納得させるには課題がたくさんある。設定を考えて、それらが発揮され得る場面を考えて、それらを破綻なく繋いでいって起伏とおもしろみのある物語にする。それには多大なる力・時間・労力を必要とします。端的に言えば、美人を美人として描くには相応の画力が必要です。
説得力のある描写に至るまでの苦労こそが、創作の難しいところであり、楽しいところでもあり、最も価値のあるところだと思うのです。
現代において、その価値を知らずに「創作」を知った気に、した気になっている人が多い事実に憤りが抑えられません。
あくまで設定は実際の描写を補足する程度のものでなければならない。実際の描写よりも設定の比重が多くなったとき、それは創作物ではなく単なるデータベースです。絵や漫画付データベース。
創作者にとって、設定とは語るためのものではなくえがくためのものです。それを同一視しているような人、区別が付けられないような人に、同じことをやっている気になられたくはない。正直に言って不愉快です。
端的に言えば、版権作品において、「このキャラとこのキャラはこういう関係で~」と、「設定を語る」人がいるとします。ではこのときその人は「二次創作をした」と言えるのか? 設定は創作ではありません。
「設定」と「実際の描写」の間に差異があるという事実についてのみ話をしているので、この件に関して「創作のべき論を語っている」と言われたことがありますが、実に心外でした。
「設定」と「実際の描写」が同一視できる、ということを客観的事実を根拠に矛盾ない理論で証明さえして頂ければ、私も納得して考えを改めます。感情論で語られても、それこそ「創作のべき論」の域を出ないので却下。
互いに「べき論」しか述べられないのであれば、単なる価値観の違いとして共存できますが、そうではないのでできません。
なのに現代の文化において「創作」というと「キャラ設定を考えて語ること」と同一視されるから、あーーーー本当にこの文化なんっとかなんねえかなあああああ!!!!!!最悪だあ!!!!!!!!!!!
言葉で説明できない世界を、言葉以外の手段で間接的に表現して!!!!その世界を読者と共有する!!!!!!この楽しみを知らないでおいて創作を語る…いや騙る人の多いこと多いこと!!!!!ありえへんわ!!!!!!!!!!!
私が漫画大好き物語厨なのでそちらを念頭においた話になってしまいましたが、一枚絵創作でも同じことです。ただ描写では語られない余韻が多く、その補完を受け取り手それぞれに委ねるだけ。それも一つの創作表現の在り方でしょう。
私個人の価値観として物語厨作品至上主義なので、そういう価値観を表に出してしまいましたが、私は本当に設定を考えて語る遊びも好きですよ。でなきゃやってねーですよ。サイトにもあるしツイッターでもたまに語ってるので見てね。
設定を考えて語る遊びを否定はしません。ただ私が作品…創作物が、物語が好き過ぎるだけ。
設定を考えて語る「遊び」という表現が反感を買うかもしれませんが、そこにも悪意はないのです。「遊び半分」といった、「本気ではない」という意味を持たせるつもりはありません。遊びは楽しい。心を豊かにしてくれる。息抜きになる。そういうありがたみのある活動だと思っています。遊びに本気になったっていいじゃない。
ツイッターでも普段からちょいちょい「創作と設定語りは違う!!!!」と叫んでいましたが、その答え・まとめとしてはこの記事が全てです。
ああ~~~うちの子活動を創作と同一視する文化、廃れねえかなあああ~~~。たぶんツイッターの台頭と共に広まった文化だと思うんですが…。廃れないだろうなあ。
余談)今どきは版権作品に投入するオリジナル主人公の設定を考えて語る遊びも「夢創作活動」というらしくてひえぇ~~~wwww修羅場wwwwww
余談2)質問集答えられんかった。