カテゴリ「好きなもの」[31件] - てがろぐ - Fumy Otegaru Memo Logger -

カテゴリ「好きなもの31件]

No.354

18÷0=0?
-----
加減乗除は数字同士の演算です。
小学校だと「りんごが1個と1個、全部で何個」が足し算で、「りんごが3個、2個食べたら残り何個」が引き算。などなど…現実の感覚に即した教え方がなされます。これを疑う人はいないと思います。
でも実はこれって規則の一種でしかなくて、「数学的に有意であり、答えが一意に定まるのであれば、どんな規則を設けても」よかったりしてます。
なんと!1+1=0という世界もあります。私がミーハーなのでこのあたりしか例が浮かばないので恐縮ですが…。1+1+1+1=0でもよいのですが、本質的に変わらないのであんまおもんないですしね。

なので本質的には数学の加減乗除の意味づけってほんとに意味がなくて、必要なのは「足し算と引き算は逆」「かけ算と割り算は逆」ということやその他諸々の規則だけなんです。
そしてタイトルに戻りますが、「何か数字を0で割る」計算の答えやいかに?という話です。ここに日常感覚で意味づけをしてしまうと、「18個のりんごを0人で分け合う」という状況が考えられます。
そこに罠があって、「18個のりんごを0人で分けようとすると、分配作業は0回だから、18割る0の答えは0だ!」という事態が起きてしまうのですね。
たぶんツイッター(現X)で話題になっていた件の教師も、そんな感じで生徒に答えを示してしまったのではないかなぁ。

ここで厳密に数学的な話をしてしまうと、18÷0=不定、です。
上述した「割り算はかけ算の逆である」から考えてみましょう。これはいったいどういうことかというと、「18÷2」という演算の答えは、「2に掛けたときに18になる数字」のことなのです。2×9=18なので、18÷2=9。
つまり、18÷0の答えを出すには、「0に何を掛けたら18になるか?」を考えることになります。はい真瀬さん早かった。「そんな数字はありません」以上です。
0という数は「何をかけ算しても変わらない」もののことですからね。これは数学界の規則上基本的なことで、つまり「18÷0」に答えが定まってしまっては、0という数字の意味を根幹から否定しているのと同じになってしまいます。

ちなみに「答えは∞だ」についでですが、平たく言うと∞は「考え方」であって数ではないので、四則演算の答えにもってくるのは不適切という意見です。
電卓によってはこの割り算の答えにdiv(発散、無限に大きい)を持ってくるものもあるとは思いますが、電卓は数値計算(大きさ)を出すのが目的なので、近似した便宜上この表示が出るだけであって、数学的に厳密な解ではありません。
ツイッターで見かけた主張に、18÷0.1=180、18÷0.01=1800、18÷0.001=18000…とどんどん大きくなっていき答えは無限大になる。というものがありましたが、0.1であろうと0.00000000000000000000000000000000000000000000001であろうと0とはノットイコールですので、0で割るという行為を真に実行することはやはりできません。これは定義上の厳密な主張です。
(とはいえ最終的には単に書き方の問題でしかないかもしれません。宗教派閥はありそうです)

せっかくなので18÷0ができないことを証明しましょう。みんな大好き証明問題です。
割る0が実行可能であるとする。つまり18÷0=r とする。rは何か特定の数字の仮置きです。
少し上でした話によると、÷0の答えであるrとは「0にかけ算したときに18になる数字」のことなので、0×r=18です。
でも、0は大前提として「何をかけても0にしかならない数」のことなので、0×r=0です。
以上2つを併せると、18=0になります。不思議な世界観ですね。
とんでもないことが起きてしまったので、そもそも最初の「18÷0=r」という設定が間違っていたことになります。
よって割る0は実行不可能です。終わり。

ちなみにこんなことを小学生に説明するのはナンセンスなので、りんごを分ける話はあくまで最初の導入に留めておいて、あとは「かけ算の逆だよ」の説明に終始するのがよいのでは…と私は考えます。
そもそも小学校の先生は必ずしも数学を専攻した者達ではないので、純粋数学に根ざした厳密な説明をせよ…というのも酷かと思います。
でも教師自身、自分が小学校のときにどういう説明で四則演算に折り合いをつけてきたのか、思い出しながら、今の小学生たちが納得できる答えを用意してあげることが必要なんでしょうね。「こういうものだよ」て片付けてしまうのはあまりに教師側の無教養が過ぎる。悲しいです。
-----

好きなもの 編集

No.294

尚未だ免許所持しておらず。第一段階も終わっていないもよう。

サイトご訪問などいつもありがとうございます!
拍手も久々に多めに押して頂けてうれしいです( ≧∀≦)ノ♪
キーボードを持ち込めば職場でもペン入れができない…ことはない……ことに気が付いたので、昨日くらいからちまちま本編も進めています。近いうちに、更新できたら、できたら~~!!?!
-----
<a target="_blank" href="https://blog-imgs-161.fc2.com/c/t/o/ctoc... src="https://blog-imgs-161.fc2.com/c/t/o/ctoc... alt="20230517211142cc7.jpg"></a>
<a target="_blank" href="https://blog-imgs-161.fc2.com/c/t/o/ctoc... src="https://blog-imgs-161.fc2.com/c/t/o/ctoc... alt="20230517211224029.jpg"></a>
あ~~しゅき~~イキりバイクオタクになっちゃう~~wwwwwww
kawasakiニンジャとか好きなのでこれくらいのパキパキの色でシュッとしつつもゴツいの最高…。。。
とりまクラッチ操作が壊滅的なのでAT限定でスクーターから選びましたが、ほんとに今後慣れてゆき物足りなさを感じたら限定解除する。のかも。
という心積もりでしたがこの子がかわいすぎて添い遂げるのも超絶あり!!!
そも…車体へのこだわりがちょうつよなわけでもなく、何より走る体験を欲してるので、特に細かいこと考えず原チャ感覚で走れるAT良いんすよね…。あとシート下がMT車に比べて広くて荷物がわりと積める。らしい。
ツーリングで高速乗りたいから150です♪ も少し大きくても安定感あるでしょうが、非力な私は取り回しのしやすさと安全な危険すり抜けのためにこのサイズで…。(既に教習車の400がきちぃ)

嬉しすぎて浮かれポンチのためグラサンを既に買ってしまいました。ウン年ぶりに買う私服はライダースジャケットかな、、、笑
あとなんかバイク関連のオススメイキりアイテムありますの??なんでも、アドバイス大歓迎です!^^
今月中に免許取れたら万々歳て感じですね…卒検落ちまくる説もありますが!笑
引き続きがんばりますー。
-----

好きなもの 編集

No.293

セマンティックとスタティうんたらですね(未だに覚えられてない)
-----
検索したらsemanticとsyntacticだった。そら予測でも出んわ。

私が常日頃考えてることって結局このへんに行くのかもな~~と最近考えてます。
構文論は単なる記号の集まり(特定の文法には沿ってたのか?よく分かってないです)で、そこに意味をもたせて実用してくのが意味論なのかな…とふんわり解釈してます。

例としては適切ではないかもですが、例えば算術演算子、加減乗除の+-×÷。これらと数字を組み合わせて並べたのが構文です。
1+1=2 (加法の文法には則っている)
とはいえこれだけでは単なる機械的な演算に過ぎません。このような記号の羅列をなんやかんやするのが構文論。それを、「りんご1個ともう1個、合わせて2個」という意味でもって解釈します。すると実生活で利用可能になります。これが意味論。
なんや当たり前のこと言うとるだけやんけ我ぇ…て言われるかもですが、実際1+1=2という構文を日常感覚に置ける和算として読み解く必要性は必ずしも無いのですよね。
1+1=suc(1)=2(1の次の数字は2である)という読み方でもよいわけなので…しょうもない例ですが…。
(たぶん割り算のほうが解釈のパターンが分かりやすく多いのでそっちのがよかったかもです

つまり構文は客観的な事実をぽんと置かれただけにすぎず、それだけでは何事をも成しはしない。意味付けされて初めて実世界に顕現でき、そしてその意味は人間が見出だすものであり…という。
ふうに小並感として解釈しています。厳密な理解が追い付いておらずすまぬ~~許してくれ警察~~!

純粋数学が哲学的と言われる所以がこのへんなのかなあとこないだ感じたのでした。唯物論と唯名論が関連ですよね。
まあこちらの場合は現物ありきの世界観重視か、そこから受ける人間の印象ありきの世界観重視か、という対立だったはずでした。だから、別にセマンティクスとシンタクティクスは対立構造ないし特にどうというわけではないのですが。
ただ何が凄いかというとやはりあくまでも構文論と意味論は数学でしかないので、いずれにせよ体系的な理論が構成されており、真偽の概念が見出だせるということにありますな。
哲学は哲学することが重要かと思われますので、別に何が正しく何が間違っているか、区別はないはずですし…。

最近の日常生活では、私はとにかく常に鬱屈としてるタイプの陰キャなのですが、世の中のあらゆる物事(客観的事実や事象。いわゆる構文)に対する意味付けの問題なのだなあと感じています。
仕事中怒られた、とかの場面ひとつ取っても、怒ってきた相手何くそー!で終わらず、このように怒られたのは私が××だったからだ、とか、自罰的思考にすぐ走ってしまう。(別に今の職場優しすぎるので誰も怒りませんが…)
私がこの、人生という数学をプレイするにあたっては、もう少し自分が気持ちよくなれるような意味論を構築していきたいものですね~~。
上手く言ったつもり!
別に教訓無いです。終わり。最近ちまちまblog書いててえらいですね。
-----

好きなもの 編集

No.287

ツイッターにしょうもない独り言を連投して不快感をまき散らすくらいならここ我が家で延々壁に向かって書いてるほうが有益だし見返すのも容易ですよ!
-----
コーヒーを毎日飲まないとソワソワする程度にはジャンキーだし好きです。(それはただのカフェイン中毒では?)
あまり選り好みしません。深煎りでも浅煎りでもそれぞれ気分で飲みます。ただしそんな味敏感ではないので、豆自体の違いや、淹れるときの手法による違いはあんま気にしないです。
プレスで淹れてもらうとわー油浮いてる!^^とニコニコするくらいですかね…。
強いて言うなら酸味の良さはあまり分かりません。コーヒーに酸っぱさを求めないんだよ~!

コーヒーに関しては純粋に「美味~!」と思って飲んでるわけではなく(ていうかそれ目当てで飲む人メジャーなの?嗜好品でそょ?)
コーヒー飲んでる自分カッコイイ!という悦楽ありきで飲んでます。言い換えれば「コーヒーを味わう時間・場所・雰囲気を楽しんでいる」ですね。物は言いよう。
あとは作業集中のためのスイッチですかね…。単純にキリっとするので!
優雅に少量のホットコーヒーを味わうのも好きですが、個人的に一番好きなのは大量のアイスコーヒーをガバガバ入れながらカフェインを実感しつつ原稿に向かっている体験ですね。

よそで飲むコーヒーは極端にくせやえぐみが無ければ特にこだわらないですね……。逆に言えば高くて良いものをあまり感じられないので、そこそこの値段でそこそこの量を飲める居心地の良いお店が好き!
(以下個人の独断と偏見です)
マックはコスパ最強。でもちょっとくさいです(値段に対しては十分)
ドトール・コメダがちょいえぐい、よくある茶店コーヒーのイメージ(よく覚えてない。違ってたらごめん)
スタバは高い高いと言われてるけどコーヒー単品飲む分にはむしろ安くない?敢えて毎回飲もうとも思わないけど…
タリーズはハニーミルクラテを飲む店
ルノアールはコーヒーが詳しくよく分からない庶民には高い(ハニトーうまし)

コンビニコーヒーがかなりおいしくて手軽に買えるから、働いてた時期は助かってたのですが(睡眠不足だったため毎日買って出勤してました)、もしかして値上がりしてます…?今って100円じゃ買えない?
安くてコンビニで買える!というのがうま味だったのだから、変に質を追求してカフェ並みの値段になったら切ないなぁと思いました(´;ω;`)
まだ延々語れるけど飽きたので一旦切ります。
-----

好きなもの 編集

No.255

まじめに書きます。
-----
結局大した外的要因がなく、一時期入院してた病院からはひたすら「あなたは鬱ではない、将来に不安なだけです」と言われ続けたくらいなんで、(かかりつけでは鬱診断降りてんですが)よく分かりませんでしたねぇ。
ただまあここまでくると診断というラベリングはやはりその人の本質を決めはしないため、どうでもよかろうなのだ??
けれども、本当に病んでたときはなんでこんなにしんどいのか答えと理由と許しが欲しくて診断はしてほしかったですね……。今だからこそ、「鬱かどうかはともかく精神的に参っててしんどいのだから診断によらずに自分を許してあげればいいのに……それができないからこその堂々巡りで、さらに診断も降りなければ周囲にも認知されないから人権がなくてかわいそう!」とわろてられますが。当時は死ぬ思いでしたわよ。

大学後半あたりでどうにもメンタルが参ってしまいあれだけ好きだった勉強にも手が付かなくなり、さらには創作も……。何にもできず横たわって天井を眺める日々!
とにかく「動けなく」なってしまって、就活も当然できず無事卒業!ニートの爆誕です。

外的要因はなかったです。いじめられてもないしパワハラも受けてないし働いてもないし。恋人に先立たれたとかも。何にもない。私のメンタル構造の根幹がねじ曲がってもはや病的ぽくて、毎日毎秒自責し続けてたらなんか動けなくなってましたねー。
目ぼしいきっかけは「理想の素晴らしい大学生になれない」からでした。元々学校における人付き合いが大嫌いだったので、勉強だけできてればそれでいい…と信じて大学入って友達作りを一切しませんでした。
努力しなくても人が寄ってくるタイプなんかではもちろんないので、ひたすらぼっちでしたね…。
別にその生活自体に不満はなく(気を許せる間柄の人はいなかったわけではないしね)、そのままでいたかったのに、周りはやっぱり自分とは違うじゃないですか。友達いるのが普通だし、グループで楽しく過ごしてる。
私に話しかけてきたのなんて同じくぼっちの、宿題を写させてほしい外国人だけだったよ。(もちろん友達ではない) 国費で留学させて頂いてんのに課題出る度に人に写させてもらうって、なんのために大学来てんのオマエ???キャハハハ!くらいには当時呪ってました。許すまじ。

自分を責めたくらいで~?と訝しがられるかもしらんですが、私の主義としてやるなら徹底したい、がありましたので、あくまで自分を責めるのは「ポーズ」ではいけなかったんですよね…。
自分を責めることが自分を甘やかすための布石になってはいけない。だからこそそれはもう徹底的に。いついかなるときも。何をどうしても。完膚なきまでに自分を責めて痛めつけていました。
ただこれは本当に内的世界の話なので、言葉でどれだけ尽くしても程度がよそに正確に伝わることは一生ないと思います。でも一応それらの結果として、「本当にやりたかったこと」さえも手に付かなくなる、動けなくなる、日中の活動レベルがひたすら下がる…という心身相関が起きてたことは事実です。

縋るものが勉強しかなかったのに、それ自体ができなくなっちゃうという本末転倒愚かの極みっぷり。そしてその「動けない」事実そのものがさらに自分を責め…と、負のスパイラルでした。
だから当時はやたらと「人に分かってもらうこと」にこだわっていた気がします。別につらみ痛みの程度まで同じレベルに下がって賛同ほしいのではなくて、ただただ「苦しんでいる自分」を「そうなんだー」と納得してほしかった。それだけ。
なまじ私が普段から明るくおちゃらけた言動で、「自分を律せない奴はぐずだ」が信条だったので、基本的に不機嫌や落ち込みがふるまいに現れて他人を害したり…とかはないタイプのメンヘラなので、本当に鬱に対する典型的な「甘え」「努力不足」「怠けてるだけ」てのをかなり思われて・言われてました。
端的に「遊びたいから就職しなかっただけでしょ」とか思われるのが本当にしんどくてしんどかったですねー。自分で自分のしんどさを受け入れることすらできず、周りにも納得されてなかったので、じゃあどうすんの死ぬの?みたいなね。

死ぬ勇気さえあれば死ねたんですが、いかんせん生来の性格が最強のビビりなので、痛いのが本当に怖くて死ぬことは絶対にできなかったです。でもそのへんも「どうせ死ねない程度のつらさなんでしょ(笑)」要素であるというね…。
このへんの経験を経てとにかく思ったのは、人には人の価値判断感情授受の基準と程度と方向性があるのだから、安直に自分のものさしでその人の対外要素のみを切り取って内なる感情の度合いを測定するのは愚の骨頂ということですね。
自分の努力ではどうにもならないほどに落ち込んで病んで、どん底にいった経験がない人こそ、自分のものさしだけで人の感情を測りがちな気がします。大したしんどい出来事もないなら大丈夫!死んでないなら大丈夫!みたいなね。そして軽率にその人の「心の強い(弱い)」で物事を語りがち…。語ればまた長くはなりますが(笑)、「私メンタル強いから」とのたまう人の実際鈍感無知傍若無人迷惑野郎奴っぷりですよ。(なんならメンタルにダメージを受けてそれでも生きようともがいてる奴こそが最強ですからね…自賛になってて恥ですけど)
だからこそ、「他人の感情は分からないけど、あなたがつらい状態にいる事実は分かるよ」という優しさを、せめて私だけでも忘れないでいきたいです。

そんなんでひとまず、病みました!という内容に触れたので、そのうち後編として、うつヌケました!内容に触れようと思います。
-----

好きなもの 編集

No.250

<a href="http://ctoc447.blog.fc2.com/img/220404.p... target="_blank"><img src="https://blog-imgs-151.fc2.com/c/t/o/ctoc... alt="220404.png" border="0" width="960" height="1280" /></a>
画像はアリ缶のサブキャラのデザイン草稿ですね~
-----
1.スケブについて
幸いにも最近のイベントでスケブを頼まれることが増えたんですが、それでけっこう慌ただしくなってしまったり、何よりも「リュウキの漫画に興味はないけど、スケブを描いてもらいたいから仕方なく本を買う」層が一部にいらっしゃるのを感じていたので、その行為が良い悪いは別問題ですが、少なくとも私はスケブを描くためにはイベントに参加していないので、「スケブ総数を減らす」「純粋な元祖の意味としてのスケブのみ受け付ける」ことを目的としてアンケ返礼制にしてみました。
結果的に頼まれる数は激減し、手間をかけて頼んでもいいと思って下さる方のみ頼んで下さったので、目的は果たされた…ようなのですが、完全に成功したとは言えないなあと感じました。
理由として、「本は読みたいから買うし元祖スケブも頼みたい」層を弾いてしまった感触、それと「手間をかけても元祖スケブを頼みたい」層に余計な手間をかけさせてしまっただけという感覚があったからです。なんやデメリットばかりやんけ。
一見効果はあったようだから、制度続行はいいとは思うんですよね。ただ弊害がでかすぎるから、いわゆるfor meの層に迷惑かけるのは本意ではないし…。というわけでスケブ依頼の対価をもう少し吟味したほうがいいと思いました。
それと私の告知の仕方もよくなかったのかもしれません。単純に中の人がスケブを忌避してるように取られてしまったのかも。いやほんと言っておきますけど、当方の作品ありきで来てくれて本を買ってくれた方へのささやかなお礼として描かせて頂くのは大歓迎ですので!スケブ自体が迷惑だったら一律断りますからね。

2.出張編集部について
今回の新刊が18斤本だったので、成人向け漫画を扱ってるところに持ち込みに行きました。もう1ヵ所伺いたいところありましたけど人がいすぎてやめた。

【ここから愚痴】
というか…出張編集部は整理券を「一枚」取って寄り道せず1ヵ所に並び、持ち込みが終わったらまた新たに一枚取って…という制度(公式に記述あり)なのに、なぜ私の後から来た人が私よりずっと若い番号を持っているために先に対応されるんだい???
明らかにルール破りなのにそのへん統率できてない(まじめに守ってるほうがアオリを食う)のは理不尽だし、編集部側も明らかに後から来た人を(若い番号を持ってるからと)先に対応というのは考えものだよなあと。もちろん戦犯はルール破りびとですけどね。でもそんな理不尽な不公平が起きるくらいならルール自体をなんとかしてほしいです。
文句書きましたごめん!!!!
【愚痴ここまで】

主に言われたのが「見開き単位で見せ所を作る」「あれもこれもと詰め込まないで一つの描写を丁寧に、テーマをはっきりと」といったことですね。今回特にストーリー性もない短いえろ漫画だったこともあり、キャラなど内容面については一切触れられなかったのが残念だなあ。(男性の方だったのも大きいのかも…隣の女性編集さんはかなり内容に触れた指摘をされてたので。このへんは相性ですね…)
ただそういう、とにかく漫画表現における技法など…ごく当たり前のことではありますが、自分の漫画にはそれが足りないと改めて意識できたので、これから気を付けて画面作りをしていけるといいですね。

ただそこでふと思ったのは、なんでもかんでも編集に言われたことを取り入れて自分の作風を変えていくのはいかがなものかということです。
元々車があったところで、部品をどんどんとっかえひっかえして修理改造を繰り返していった果てにあるのは、当初の車その個体といえるのか?というパラドックスに通じますね。
なんでもかんでも取り入れる必要はない!自分の芯だけは失わなければいいでしょ!と簡単に人は言うかもしれませんが、だからその「取り入れるべきアドバイスか否か」「自分の譲れない、譲らないほうがいい芯はどこにあるか」の判定がとにかく難しいんですよ…。
ひとえにそれは、自分の最終目的がどこにあるか、自分は漫画表現を通じてどこに向かいたいのか、どうなりたいのか、何をしていきたいのか…。という問いに通じますね。

たまに「もしも自分にそれだけの実力があって可能だったとして、商業作家になることを私は選ぶのか」ということを考えます。よく分かりません。
ただ愚直な理想としては「自分の描きたいものを描きたいように勝手に描いてそれが世間に持て囃される」だとは思うんですよねぇ。でも実際それは(仮定が可能だとしても)傲慢だと分かっているし、なんなら盲目的に描き続けるよりはもっと自分の表現を向上していきたいのは事実です。
でもその、自分にとって歓迎すべき向上の範疇がよく分からないというですね…。それこそ「大衆に求められるような、分かりやすいキャッチーな作品」(例)が描きたいのか、と言われればなんとなく違う気もするし。
分からん!!!これも結局は自己肯定感の低さや自信からきている気がします。自己同一性、アイデンティティを確立できていないんですね~。

3.今後の展望
とはいえここは同人なので、とりあえず目先の描きたいものをやっつけながら、こうして人の意見を伺いにいったりしつつも、「描くこと」「形にすること」だけは辞めずに続けていきたいと思いますよぉ。
ただ、9月のイベント以降はひとまず申し込まない方針で、しばらくはアリ缶の本編に注力したいと思います。(その前に春告鳥をもちろん終わらせます!) 原稿も夏コミ以降はイベント用新刊は必死には描かないつもり…。
進んだり戻ったりはしておりますが、何にせよ創作活動を辞めてしまったら元も子もないですからね。努力が必ず報われるとは思いませんが、それでも無能には努力しかないんだよ…。

長々書きました。読む人いるのかこの文章?
あ、そう、なので。人によっては批評批判など賞賛以外は断固お断り!!!!!!!!みたいな人いますが、私に限っては忌憚なき意見大歓迎です。電子配信のレビューやツイッター投稿なども、ピコピコサークルにはありがたみしかないです。
ただ暴言や誹謗中傷はやめてね。サイトの拍手、メルフォやマシュマロなど…。いつでも受け付けてます故~~~よろしくです。

ありがとうございました。
-----

好きなもの 編集

No.246

<div><a target="_blank" href="http://ctoc447.blog.fc2.com/img/20220418... src="https://blog-imgs-151.fc2.com/c/t/o/ctoc... alt="20220418234306f26.jpg"></a></div>
-----
(3)
オチがねぇ!!!!
絶対に全三回で打ち切る予定だったので、中身がまとまりきらず……日が空いてしまいました。

どうにかこうにか絶不調メンタルを乗り越え、ギリギリですが私は生きています。とはいえまあ生まれないなら生まれないほうがよかったし、死ねるほどの甲斐性がないから後ろ向きに生きてるだけですけどねぇ。
字面からはダークサイド一直線で、確かに一時期は本当にあわよくば希死念慮説もありましたが、今はそれでも「生まれてしまったので仕方なくぼちぼちやりながら生きてくか~」くらいには前向きです。(比較的ね)

無理やりまとめようと必死です。
私の自信のなさ、自尊心の低さなどの所以は分不相応に高過ぎる理想を求めてしまう裏返しでもあったので、結局はよい意味での諦めを会得するのが期待値の極大点(最大とは限らないがその近辺ではひとまず一番大きいっぽいとこ)なのかなあとも思います。
よくも悪くも自分に厳しすぎると、理想を下げるとかよい方向に転換するとかがうまくできなかったりするのではとか……。
時々うわごとのように言葉にしてますが、本当に「妥協と惰性」なんですよねぇ。
一時期思い詰めるあまりに描けなくなりそうな時期もありましたが、ひたすら惰性でなんとかしがみついた結果、今に至ってるところがあります。
前向きに追っていけるようなよすがとかは本当にないんですが、まあそんなもんでしょ~~数学じゃないし常に最適解が一つに定まるわけもない。惰性惰性~~(汗) と妥協しつつ過ごしてます。

そして今回マシュマロを頂いて特に意識したのが、自分で自分を評価してあげるしかない、という点について。「あ~~私はそもそも自分を心から認めて褒めることが怖いんだなあ」とあらため思いました。
そしてその恐怖の根源は主には「他人に(これ以上)否定されることが耐えようもなく怖い」なんです。つまり他人に否定されることを過剰に恐れて、先に自分で自分を否定してる。ある種の逃避行為でありますので、いわば精神的自傷とも言ってよいでしょう。もしくは「自分が駄目なのは自分が一番よく分かってますので許してちょ!」という甘え。
それと高過ぎる理想も相まって、とにかく自分に厳しくするほうに意識が向いてしまうんですね。過去の記憶がわりと薄いタイプですが、若い頃からわりと「何かやらかしたときは徹底的に自分を責めなくてはならない、苦痛を感じなくては反省したことにはならないから」くらいに考えていたことを覚えています。思考だけがブラック企業に洗脳済みですね。あほか。

勤めたこともないのに姿勢だけはいっちょまえにブラック企業サラリーマンなんですよねぇ。端的に言うと、しんどければしんどいほど偉い!楽してるうちはまだまだ!みたいなん。快不快の次元と努力か否かの次元はまるでベクトルとして独立だというのに……。
自分を楽させてるうちはまだ駄目だと思えてならず、とにかく少しでも何かあれば徹底的に自罰に走ってしまいます。性根がひん曲がっている……。
ただやはりそれも、自分の勇気のなさの表れと思うのがよいのかなあ、思考の方向性をちょいと反らしてやればパフォーマンスの向上に関して有意なんではないかなあ。と思いつつあります。
つまり「自分を認める、褒める」を、(できてない状態こそ臆病さの悪い表れであると客観的に見なし)達成すべき課題として設定し、その課題解決に邁進する……という。根本的にはブラック企業から抜け出せてはいませんが、それでもその取り組み方向性はあまり自分を追い詰めるものではないんじゃと思いました。

結局、「自分を否定しない!自己肯定感を上げる!べき!がんばれがんばれ!」みたいながむしゃらな「努力」こそブラック企業の根性論を抜け出せていないし、それもまた理想の自分との乖離に繋がって自分を否定する材料になりかねないんじゃないかなあ。
というわけなので、無理やりまとめますが、自己肯定感アップの秘訣は1に妥協、2に惰性、3、4がなくて、5に「思考の癖を工夫してねじ曲げる」努力 ということですかね……。

とはいえ私みたいのは数年のサイクルで同じく悩みを繰り返してると思います。それが円環でなく少しずつ上昇していく螺旋であることを祈ります。
(おしまい)
-----

好きなもの 編集

No.244

<a href="http://ctoc447.blog.fc2.com/img/211206.p... target="_blank"><img src="https://blog-imgs-151.fc2.com/c/t/o/ctoc... alt="211206.png" border="0" width="714" height="1013" /></a>
-----
(2)
届いたマロは主に「リュウキさんは他者からの否定の積み重ね体験が自己否定に繋がってると思います。しんどいけど自分で自分を肯定していくしかないでしょう」というものでした。(原文はもちろんとてもやさしかったです)
な、なぜそこまで知っている…!?(笑) わりと自分の思考や感情を露出することに抵抗がないため、ダークサイドはとりわけて隠してもいませんが、別に積極的に表出させてるわけでもないつもりだったんだけどなあ。やっぱり漏れ出ちゃうネ!☆
ひたすらの真理だと思いました。頭では理解してるつもりですが、改めて明文化されたお言葉を読んで、ヴッッッッ となった次第です。

笑っちゃうと思うけど私はどこまでも自分に自信がないです。頭では分かってるつもり。私は勉強得意だし、少しは絵が描けるし……。人生の目標や生きがいが明白だし、いろんな楽しいことを知ってるし。いっぱい良いとこあるんだろう。とは。
でもそれは単なる事実という情報でしかないです。自信ってのはそうじゃない…そうじゃないんだよぉ…。良いところを知った上で、だから自分を信じていこう、っていう湧き上がる確固たる感情のような…。
自分の長所に関して言うなら、どんなに勉強ができようが駄目人間であることに変わりはない。むしろ親にここまで投資してもらって奨学金なしに四大まで出させてもらったのに…みたいなね。自分が恥ずかしくて仕方ないです。勉強が何一つ評価され得ない。
穏やかっぽいというか単に度胸がないだけ…。ことなかれ主義なんですよね。
とかね~そんな感じで。私という個人を構成する様々な技術や特性はあってもあってもそれを解釈する私の根性がねじ曲がっているので、なんの取り柄にもなってないということです。
絵・創作なんかほんとに笑っちゃうもん…。なんで描いてんだろね。むしろこんな生き方知らないほうがずっと楽だったのにね。
まあ心の細かい働きはどうあれ何を思うにつけても「自分ゴミ、死ね」に結びついてしまう。それはひとえに自信のなさであって、自己肯定感の低さなんでしょう。

自己肯定感の本質は「自己への肯定」なので、厳密には「自己の長所への肯定」ではないんですよね。そうとは限らない。むしろありのままの自分を受け入れて、認めて、「まぁいっか~アハハ」と思うに至ったときこそが最も自己肯定感に近づけているのではないかと。
ただ(私もそうなんですけど)自分の短所が目についてしんどくてしょうがない人なんかは、短所を前にして「まぁいっか~」と笑うことは至難の業であるため、長所を肯定していったほうが容易で現実的、というだけの話です。実際ありのままの自分を受け入れることほど難しいことはないですからね。
見付けていったり、見方を工夫してみたり、伸びしろのあるところを伸ばしていってあげたりですね。
(ちなみにそのような視点の切り替えや自己の向上がいっさいはかれなくなったときが認知が歪んでるメンヘラ状態じゃないかなあ)

私の性格上こう見えて潔癖というか…分不相応な向上心、高すぎる理想というのが得意技なので、短所を短所としてとらえた上で「まぁいっか」に至ることが本当に本当に難しいのです。そんなふうに過ごしてるから常日頃ジレンマに陥っててストレスという。
じゃあもっと素直に長所を見付けて伸ばしていって、自信あるというプラスの状態に持っていくしかないのでしょうけど、どう客観的に見積もってもそれも無理。
つまり八方ふさがりです。イェーイ!!

(続く)
-----

好きなもの 編集

No.242

頂いたご厚意マロから考えてみたことを追記からまとめてます。画像は俺の嫁たち。
<a href="http://ctoc447.blog.fc2.com/img/220327-2... target="_blank"><img src="https://blog-imgs-151.fc2.com/c/t/o/ctoc... alt="220327-2.png" border="0" width="1440" height="1080" /></a>
-----
(1)
お気付きですが私のツイッターって考えたよしなしことを忌憚なく書いてるため、わりとかなりたくさんの人にブロックされてます。フォローしたこともない知らない人にブロックされてたときはさすがにわろちゃった。
それなりに気にはするけど気にしちゃいけないというか、別に積極的に他害しない範囲で倫理を見失わず好き勝手に書いてるなら、それで離れてく人は勝手にすればいいはずなので、「付いて来られない奴が悪い! どんどん振り落とせ!(完全ドリフト)」の信条のもと思考の言語化を心がけてたんですよね…。
私は常に負のエネルギーで生きてるタイプの根暗of根暗人間なので、ツイッターの「ポジティブなことだけ書くべき!!」ていう主張が同調圧力、ポジティブの強制という暴力にしか思えないです。むしろそれを見るほうが私にはしんどい。
そしてその私個人の「しんどい」だって、私という人間は大事にしていいはずなんですよ…。

特定個人へのいわれなき感情論のみに基づく罵詈雑言誹謗中傷は、私はしたくないなあ。と思う反面、たとえば正規の手続きを踏んで手にした作品に対する率直な感想や考察、ならびに批判意見だったり。は書いていきたいです。逆にそこで、他人の(好きな)作品は絶対にあらゆる全てを受け入れるべし!!!みたいのは私にとってはポジティブ強制暴力です。
いわゆるマイナス意見を「他人の耳に意図的に聞かせる」かどうかは本当に個々人のモラルの問題によるとは思います。でも、でも…しょせんツイッターやぞ!?!? 壁に戯言を落書きしてる程度です。それを受け入れる強制はしないし、見るも見ないも自由だと思います。
「嫌だから見たくないからブロックされたのでは?」という見方もさもありなん。しかしそれは程度の問題というか…。「他人が」「内輪で一人で勝手に」「自分と違う意見を口にしている」だけの事実は、私個人は「積極的な加害」の範疇にはこないと解釈しています。「あ~自分と違う意見言ってるわ」とて、フゥンで終わる話です。でもそれをしない他人がたくさんいるというのが、(それこそ人の勝手なのでどうしたいとも思いませんが)やはり自分は人と違うんだなあ。と物悲しくなってしまいました。
(仮に特定内容の意見文が自分にとって宗教の違いなどで不快であったとしても、別に他人のツイート全てにくまなく目を通す必要はないのだし…。悪く言えばスルースキル検定でしょうか。もちろん適度にスルーをしてはいるのでしょうが、それをしても尚不快な思いをさせてしまっていたというのがしんどくてなりませんでした)

もちろん、ツイッターというのはしょせんただのツールなので、それの使い方は自由度があって然るべきだし、ブロック行為に対する見方も人それぞれでしょう。だから安直に他人の腹の内を伺って一方的に落ち込む必要だってないのでしょうが。
それは理屈としては分かるけど、やはりこうもたくさんの人にブロックを重ねられてるとねぇ。今回ちょっとくたびれちゃいました。

ということなので!!!!別にブロックしてきた相手のことはもはやどうでもいいのですが、これ以上こんな悲しみを量産したくない。もう誰にもブロックさせたくない…とて。ここ最近ずっと、もう何も考えない、考えたような内容は投稿しない、長文連投しない!と決意してツイッターを利用してきました。
先述しましたが私はあれこれ一人で思い悩んでるタイプなので、定期的にそれを言語化しないとしんじゃう人間なんですね。お友達がたくさんいる人は直接人に話したり…とかをするのかもしれませんが。あくまで思考と向き合うのは内なる行為なので、別に対面して聞かせるほどのことではないし…迷惑だし…友達いないし…。
毎日毎日悶々として、あ~この思考を言語化して投稿する場所はないんだぁ~。私は考えたことをツイートしてはいけないのか。私の考えたことは他人をここまで不快にしてしまうのか。とまで落ち込むに至りました。率直に言えば自分の人間性の否定です~~!!wwww

普通レベルの感性と常識があればよかったのにね。ととても残念な気持ちになりました。
普通になれないんだったらせめてギフテッドみたいな優れた側に立ちたかったですわ~~。でもそんな突出した技能はないものだから、単なる劣等生でしかない。残念、切腹!!!!

そのあたりがここ数日のトレンドの、自己否定しがちな人間の考察です!ここまでが前置きだった……だと……!?!?

(続く)
-----

好きなもの 編集

No.195

公式で未完成定理のレビュー企画があるけどあちらはネタバレ禁止の400字制限なので、ネタバレしかないレビューを目一杯書きました!ドーン
主に200話までの特に特にとてもめちゃくちゃ好きなエピソードに焦点を当てて語っています。
<a href="https://www.comico.jp/articleList.nhn?ti...未完成定理はこちら</a>
-----
・100年の呪い
ヤバい。眠花を縛ってるのは「どんな幸せもいつかはなくなる」「みんな自分を置いていなくなる」という悲観だけど、それを破らんとする宗司の言葉を「呪い」と形容するこのセンスがもう……っ!
期待すればしただけそれが裏切られたらつらいから、(眠花にとっては)いつかくる裏切りと隣り合わせの宗司の「そばにいるから」はもはや呪いなんですよね。
このタイトルはいばら姫の100年眠り続けた……にかかってるからエモエモです。眠花は眠れるいばら姫でそれを起こす王子様が宗司なんよ……。未完成定理のメイン女子三人は童話に関連付けられてる(いばら姫、シンデレラ、白雪姫)から構成力がニクいなーエモいです本当に。
呪いって久遠も交えるとちょっと大事な言葉で、未完成定理における呪いって単なる厳しめの言葉ではないところが良いです。眠花はまだ宗司の絶対証明を信じられてないから彼女にとっては宗司の言葉は悪い意味での呪いだけど、実際客観的に見て宗司の言葉に嘘偽りなんてないしどこまでも優しい(それ故に眠花にとっては残酷な)呪いなんですよ……。あと後述するほんとのうそでの最後の久遠の「呪い殺してやる」は言わずもがな眠花パパオマージュですね。こんなに爽やかな怨念ある?
言葉の持つ多様性というか……可能性が広がるのは創作表現だからこそで、それを余すところなく発揮してくれる未完成定理が尊い。
度々書いてるからしつこいかもしれないけど、宗司の絶対証明が完遂されるときってそうみんが病めるときも健やかなるときも(自然な)死が二人を分かつときまで共にいることができたとき、なので、ダメだもう結婚するしかない。
だからなんかもはやこのエピソードによってそうみんてプロポーズしたようなもんでしょ?なのに現在200話に至るまで付き合う気配が微塵も感じられないのが、イイ!!それはひとえに眠花が宗司の言葉を「やさしいうそ」だと思って憚らないからであって……。うそつき、うそつき、うそつき!でも誰より信じたいと心が叫んでいるのも本当なんだよね;;;;ここの描写本当にヤバかったです。死ぬ。黙って読んでくれ。
度々数学にかかったタイトルがくるのがこれまたニクいあんちくしょうで……。
そんななか「答え」に関する言及きましたねー!定理とは答えの存在する言文のことなんですけど、そこをあえて「未完成定理」というタイトルのこの漫画で「答えなんて存在しないこの世界で」「永遠を求めるんだ」と言わせるところがまあエモエモですね。
後述もしますがこの漫画は各人キャラクターが各々の人生をもがき苦しみながらも「答え」を見付けたり思い出したり追い越したりする話なのですが、その中で主人公宗司にとっての答えは「存在しない」つまり完成してない定理なんですよ……。はあ死ぬ。
後述するこなたの答えと照らし合わせるとす、す、すげーーー!!!エモさが限界突破して爆発四散します。全部ぽてさんの策略なのか?はぽてさんのみぞ知るですが……何にせよここまで深読みできるこの作品が素晴らしいということです。

・ほんとのうそ
タイトルがヤバいったらヤバい。近江久遠は確かに眠花に性愛を抱いていた。それを真正面から伝えた。でも眠花の返答は彼の欲しかったものとは違っていた。だけど、久遠は「それでいいんだ」と心から思い出して笑うことができた。それが答えなんですよ……。正にほんとのうそだね。
はっきり言って近江久遠って良い男過ぎるんですよね。確かに寝てる眠花を起こすことはできない(それは宗司の役目である)、だけど寝てる眠花が起きるのを待つことができる、起きた眠花が夢とうつつを間違えてたら目を覚まさせることができる。こんなに大事な役目ってないよ。
でもその「近い」距離こそが彼を苦しめてるのがまたな……しんどいです。
だけど、後述しますけど宗司と眠花は運命で定められた恋人同士ではないので、ひょっとか何かの采配が狂って二人が出会わなかったら、ずーっと一緒にいるくおみんは一番近くの二人になって、ただただ寄り添って生きていけたのでは……でも久遠は「優しいひどい人」にはなれない(ただただ優しいから……)なので眠花に呪いはかけられず、だからこそ眠花は救われず……夢に囚われては目を覚ます、その時間を永遠に繰り返し続けるんだろうな。いったい、いつまで???
だからこの答えに何の曇りも濁りもないのが凄い。恋愛漫画だと親愛<性愛になりがちだけどむしろこのエピソードによりくおみんの関係性は誰にも到達できない高みに持っていかれましたので……。
そしてかなり早い段階で他のどの登場人物よりも先に「答え」にたどり着いた(しかも元々手に入れていたものを思い出した)近江久遠が未完成定理で一番良い男!!!
久遠の恋愛の意味での相手は灯さんですが、ここで眠花への思いを吹っ切ったのが、灯さんを好きになったから(代わりを見付けたから)ではないところが最高of最高なんですよね。自分で、自力で、眠花の言葉をもらっただけで、「返ってきた」と思えちゃうところが……ちょっと痛くて温かい。本当に良い男過ぎる。
そして準備ができてからのくおあかが本番ですよ!!!「今のは『かわいい』か」は卑怯です。
灯さんもいわば久遠と対照的な「主人公に対する当て馬」キャラでしたが、そちらの関係性も単なる性愛に留まらない高みに持っていかれたの凄く嬉しかったです。少しのいたみは伴うけれど、本人が満たされた気持ちで「それでいいんだ」って思えたならそれが答えなんですよね。

・ずるい女
伏線が随所に散りばめられていて、読んでいくうちに「もしや?」と怪しんでいましたが答え合わせがきたときの爽快感よ……!ぽてさんの物語構成力に脱帽です。
いったいどんな思いで宗司を見守ってたんだよ……どんな思いで寝落ち報告係をやってたんだよ。眠花が宗司に出会って二人の仲が急速に深まるのを横から見ていたんでしょ?
宗司の「吊り橋効果だろ」に始まり、愛の告白が「僕のものになって」であるところといい、作中の大義名分としては「こなたの思いは真実の愛ではない(悪い意味での依存である)」「だから宗司は眠花を選ぶ」なのかなと思うのですが、なんかだからこそ逆説的にこなたの思いだってれっきとした愛情なんじゃないかなと思うんです……。未完成定理は良い子のまっすぐな清い漫画だから表立っては言えないだけで、裏テーマとしてはこなたみたいな愛情だってあっていいと思うんです。それが健全かどうかは別として。
眠花と宗司は運命の二人ではありません(※ほぼ公式見解です)。たくさんのもしもを重ねたら出会ってなかった、出会ってなかったら別の出会いがあってよそで関係性が構築されていく二人です。そんなとき関係性を作る相手として宗司を救えるのはこなただと思うんです……。
こなたが宗司に言った「君は救われていいんだよ」って言葉、俺たちも宗司に言ってあげたい。宗司も本当は欲しいと思う……はず!だけど彼はあまりに潔癖過ぎる……汚れてしまった自分を自分が一番許せないんですね。
眠花が宗司にしてあげたことってたくさんあるんですけど、もちろん眠花の言葉は、行動は眠花だけのもので、全く模倣はできないんですけど……こなただって同じく困難を抱える者として同意することができる。ただそれをしたときに、既に宗司の隣には眠花がいた。ただそれだけなんです……。
僕のほうが先に君を知ったのに。つれーわ……。
ただもちろん、そうみんが運命の二人でなかったというのは、じゃあ出会い方が違っていたらそうこながそうみんと全く同じような関係性になっていたとかそういう話ではなくて……きっと泥沼まっしぐら共依存ずぶずぶだったと思う。全てを知っているこなたは本当に宗司を許せてしまうから、それで宗司は自分を責めることをやめられず……泥沼ですよ。
だけど眠花はすげーな、、自分が宗司の過去を知らないことを弁えて、過去のことについては「よく分からない」「今の桐崎くんを救いたい」って。優しい……。
これと似た描写に、優しいひどい人のときの「優しい嘘をつく人だなあ」「私を思って言ってくれたその優しさが嬉しかった」
があって……そんなふうに思える眠花が誰より優しいよ!!!天使かな?
だからやはり運命CPではないとしても、そうみんが、良いです。でもこなただってこなたなりに宗司のこと本当に好きで、どこかの世界線に可能性はあったということだけは推していきたい……。
ここで中略。「ずるい女」こまなたしゅごかったですがCP萌え豚のそれはまたいつか別の機会に語ります……。
こなたが辿り着いたのは「答えは一つじゃない」「無限に存在する」でした!それもまた真理ですね。ここで思い出してほしいのが主人公宗司の「答えなんかないこの世界で」です。対照的ですね。
宗司とこなたは二人とも障害を抱える子、同意できる共通点を持つ子たちですが、その生き方はどこか対照的なんです。宗司は温かい周囲(2-Cクラス)に囲まれて信頼を勝ち取り優しく過ごすことができている、一方こなたは周囲の理解も得られず障害を持つあまりに他人(男性)を傷付けてしまう。こなたはいわゆる「障害を持つ人物の『悪い』例」としてのキャラクターだと解釈しています。
そんな主人公と対照的なキャラクターのテーマ、答えも(極めて数学的に、0と∞として)対照的。す、すすすすすっげーーー!!!ぽてさんが神かな?
だからこそこなたが好きだよ……。
-----

好きなもの 編集

No.192

考えたことをつらつらと…
-----
スランプというか、描く気にならない…気力がもたない…ということ多々ありますよね。
このまま自分は創作を辞めちゃうんじゃないか?という気になったり。
そんなときの対処法をいろいろと考えてみました。
まずは月並みですが…

・時期を待つ
今は創作をするタイミングじゃないんだと開き直る方法ですね。創作ってほんとにしんどい所業なので、よっぽどの天才でもない限り、凡人には寝る間も惜しんで年がら年中やるなんて無理な話ですよ。まずはその事実を受け入れることが必要ですね。
もしかしたら今自分は、別のことをやりたいんじゃないか? 周りに目を向けて考えてみるのがよいのではと。
全く創作から離れるのが不安なら、(本当に月並みですが…)インプットをする時期なのだと割り切って、何か他の作品を読んだり見たり。資料を集めるとかもいいですね。
ちなみに私はサイト改装(HTML)、作業環境作りなどをしました。


・原因捜索
というかそもそもスランプに陥るのだって原因があるんですよ…ないかも知らんけど…たいていは大なり小なりあると思います。
一見創作に関係ない事象にしたって、因果の糸が細々と繋がりスランプに至ってるかもしれません。
原因を見つければ解決方法がセットになっているので、問題があるならそれを取り除く、解決に向かって迂回するなどですね。

・環境整備
根本的に描くことが不快な場合。環境を整えてあげることも大事です。
椅子が悪い!机が悪い!PCが悪い!とかですね。それでなくとも単純に良い道具を使うことによってもモチベーションアップが期待できます。
逆に、こんなに良い道具を使っているのだから描かないわけにはいくまい、と自分を追い詰めることもできます。ここは人それぞれですね。

・人と比べることをやめる
立派な他人と比べてエネルギーが枯渇してしまっている場合もあります。他人の活躍が恨めしい、それに比べてなんて自分は…というやつです。こういうのは簡単にはやめられないものではありますが、「他人と比べている自分」に気付くだけでもだいぶ変われます。
なんなら物理的に外部の情報をシャットアウトするのもありだと思います。ツイッターを見ない。むしろネットも見ない。自分の世界に引きこもるのも良いですね。

・技術の向上を目指す
人と比べる以前に自分の技術に不満が生じて、それで描けなくなっているケースもあります。描いても描いても、こんなんじゃない!となるときですね。
そういう場合の端的な解決策としては技術向上を目指すことです。作品を作ろうとしているのではなく、今は技術向上の過程にいるのだ。そういう発想を抱いて、あくまで練習として様々なものを見、描きする。
このときの発想の転換としては完璧を求めすぎないことが大切です。理想との食い違いにより軋轢が生じて描くことが苦痛になるので…。あくまで練習中なのだと割り切ることが少しは役に立つかもしれません。
逆に理想を下げることも良いかもしれません。「今日の」「今の」目標はこのくらいで、と低めに設定していくことです。創作なんて一生ものの趣味ですから長い目で見たっていいのです。


・思考の転換
体力とか対外的要因が問題でないなら思考・発想の転換なども有効です。結局はしんどいのは自分の気持ちの問題ですからね。
最も目先の課題は根性論から抜け出すことです。創作がしんどいのは自分の心が弱いからだ、努力が足りないからだ、という発想から抜け出すこと。
なぜなら根性論は問題解決に何ら役に立たないからです。仮に自分の心が弱いからだと設定しましょう。じゃあ根性で自分の心の弱さが解消されるものか。努力ができるようになるものか。んなわきゃない。脳筋発想は少なくとも精神面が多大な影響を及ぼす創作活動においては基本的には役に立ちません。(と私は思いますが個人の所感です)

・自分を甘やかす
わりかし創作がしんどくなる人って、自分に厳しく接しがちです。もちろんある程度の負荷は筋トレと同じように心を育てるにおいて有効ですが、そればかり続けていると心が疲弊して動けなくなってしまいます。(いわゆるうつ病の原理ですね)
えっこれ以上甘やかしていいの?本当に?だらけてしまわない?とか不安になる人も多いかもしれませんが、無責任なことを書きますがたいてい大丈夫です。なぜなら創作なんていう自分に負荷がかかってしょうがない趣味を続けていて、しかもそれが思うようにいかない苦しみで悩んでいる人が自分に厳しくないことがあまりないからです。あなた自分を責めすぎよ。
というか本当に自分に甘い人だったら、創作がちょっとうまくいかなくなった時点ですっぱりやめてますからね。
だからまず第一の発想の転換として、ちょっとくらい創作できなくてもいいやーたまには遊んだれ!くらいにね。思っちゃいましょうよ。
ゲームとかアニメとかするのもいいかもしれませんね。外遊びが好きな人ならそういうことをしてみるとか。
べたべたに自分を甘やかして遊んでいるうちに、ぼちぼち描くか!っていうエネルギーが戻ってくる。かもしれません。

・自分を追い詰める
ちなみに私の場合はこっちでした。私事ですが、経験談として、一時期小嘘つきの本編を描けなくなっていた時期があったんです。楽しくない。湧き上がるエネルギーが足りない。描けない。
そんなときにしばらく時間を置いてもやはり描けない。でも結果として今は描けているわけなんですけど…。何が変わったかというと考え方で、「楽しくないから描けない」というのをやめました。「楽しくなくてもやめられないから描くしかない」「描かなきゃ終われない」と思うようになりました。
でもこれにしてもただ頭で思うだけではだめで、ああ…自分は本当に描くしかないんだなと…良い意味で思い詰めてしまったとき、自然と手が動くようになりました。
これに関しては自分の経験に過ぎないので、他の人はどうかは分かりませんが、簡単に自分を追い詰めるには締め切りを作るとかですね。いついつまでに描く!描かなきゃ××没収!といった具合に。端的にはイベントに申し込むのもいいですね。

・辞めてもいいんだと気付く
だって誰かに強制されたわけでもない、自由な自分の生き方なんですから。変に自分を追い詰め過ぎなんですよ。
そんなにしんどいなら辞めちまえ~~~wwwww 自己責任自己責任。

・その他
いろいろあるかもしれません。あくまで考え方の問題ですから。


以下具体的な手法について、
・小目標を設定する、課題を小分けにする、八割を目指す
なるべく細分化することが良いと思います。今日はここまで(少な目に)やる、としても、それがもしか毎日続けば凄い量になりますから。こつこつ続けるのが良いことです。
毎日全力を発揮できればそれは確かに理想ですが、人間なかなかそうはいきません。ちょっと物足りないな、くらいでやめる習慣を着けておけば、描き始めるときの精神的障壁は低くなりがちです。筋トレと同じですね。
目標を小さくすることでこまめに達成感を得ることができ、それは心のエネルギーの充電に繋がります。

・ながら作業をする
そんなきりきり描かなくてもいいんですよ…。おやつ食べながら、音楽聴きながら、ツイッターしながら、動画見ながら。私も今この文章を書きながら原稿しています。
作業をやることに対する精神的障壁を低くすることが目的ですね。だらだらやることで長く続ける効果も期待できます。
そんなもんでいいんですよ、仕事でもない趣味の創作なんですから。楽しくやりましょう。

・作業記録を付ける
今はそういうアプリもありますので…わりと始めやすい習慣やと思います。
私はそれで、自分の作業能率を明確化して、だいたいどれくらいやれれば大目標が達成できるかのペースが判明して、それのための小目標を設定して…とできています。
毎日の作業時間・成果を数字にすることで、今日はこれだけできた!という達成感にも繋がりますしね。逆に調子の悪いときは、なぜなのか?を考える手助けになります。(ここで安直に自分を責めないようにしましょう)
もはや記録を付けるために作業をしていると言っても過言ではない。

・作業時間を管理する
記録して把握した自分のペースを元に、何分作業・何分休憩というサイクルを作るわけです。さもありなん。
この時間管理もアプリを使ってもいいかもしれませんね。私は動画を再生してそれで時間を見ています。
漫画はスポーツですからね。漫画描きというスポーツ!!

・金を積んで好きな作家に推しCPの作品を描いて・書いてもらう
シャブだぜ~~~やめらんね~~~wwww
このご時世こんなのも簡単にできますからね…良い時代に生まれたものだ。
安直にエネルギーがチャージされます!たのし~~~wwww
でもそうなるといよいよ自分で描く必要なくなるな?そこに気付き、いや、でも辞めない!!!!!やはり自分の描く推しCPが公式なんだ!!!と蘇るまでがセットです。


最後ネタに走ってしまいすみません。おいおい追記するかもです。
自分用備忘録に…。
-----

好きなもの 編集

No.174

ファンの方は見ないでください。責任は取れません。
あくまでも個人の日記であり、他者の意見、価値観を否定する意図はありません。
-----
青のフラッグ最終回読みました…………ちゃんとした感想は全巻通して読み込んだ後で書きたいので暫定の印象としては、最悪だーーー!!!!
一人一人の恋、生き方、感性を大事に描いてきた作品だったじゃないの…………なんで最後の最後で全部モノローグでやっつけ???
本筋を曲げない程度の後日談、余談程度だったらいくらでもモノローグ後付け構いません、むしろ大歓迎!なのですが。
さすがに……付き合っていたメインヒロインと別れて、しかも性嗜好も変わって別のキャラクターを選びました、はモノローグで済ませていい範囲を越えている……。
そりゃー現実には学生時代に付き合っていた相手と添い遂げることなんて稀だろうし、性嗜好は自然になんの理由もなく変わることだっていくらでもあるでしょう。
でも、、でもそんな物語として美しくない「現実っぽさ」なんてこっちは求めてないんだよ!!!!!!
フィクションとしての物語を読みたいんだよ……生々しさは必要だけど汚い現実っぽさなんていらない。(元からそういう作品として描かれてたなら最初から読みません)
おれの選択は人から見たら~かもしれないって、確かに現実では往々にしてあることでしょうが、フィクションのなかの架空の登場人物の選択、決断を「現実にいるよく分からない他人のすること」として理解放棄したくない。共感、感情移入させてくれよ。
率直に言って納得できません。そりゃ確かにトーマが幸せになってくれて嬉しくないこたないよ……幼馴染の切ない片思いが成就してくれてまあよかった。でもそこに至るまでの過程を妥当に見せるのが、フィクションとしての漫画の役割なのではないの?
こっちは太一の、二葉の二人が二人なりに距離を縮めてくっついて、その影でトーマが泣いて……というのを本筋で見てきてんだよ。太一がトーマを最終的なパートナーに選ぶ、という伏線があったならいざ知らず……。「友達として一緒にいたい」が結論だって言ったじゃん。
というか漫画のテーマである(と私は思っていました)キャラクター個人個人の(恋や愛にまつわる)多様な生き方を描写するなら、そして太一→トーマのクソデカ感情を至高のものにしたいなら、それを結婚という一般的には性愛のためのテンプレのゴールに落とし込むのは悪手でしかない……。恋愛脳漫画は私自身好きですし推しCP結婚EDは大歓迎ですが、青のフラッグでやることか???
大切にしてきた、そして好きだったテーマを最終回でぼっきり折られた気分です……。悲しいよ。
ネット界で庇護されるべき同性愛者の片思いが実ったから持て囃されてるけど、これが逆(同性愛者がいつの間にか異性愛者になる)だったら炎上案件ではないの?

大好きだった漫画、作者なだけにマジでつらいです……。つらみ。
-----

好きなもの 編集

No.148

感想です ※歯に衣着せていません
22日追記
-----
結論としては「トイストーリー4の二次創作」もしくはifストーリーだったら完璧……200点満点だった。最高。ありがとうありがとう。
ストーリーとしてもよくまとまっているしクオリティは安心だし楽しかった。後味も良い。
問題はただひとつ……この映画が 「トイストーリー」の4だったこと。
いらんやん!!!!!あんなにきれいに完結した物語に続編を作って……そのオチが主人公の根本の価値観を変えることぉおお????
今までウッディが守ってきた、彼を作るものを横から折られた気分……。いえ一概にダメな道とは言えないんですが(確かにボーの言うことは正論、子どもはたくさんいる、おもちゃが尽くす子どもはボニーだけじゃなくていい)それでも

とまで当日に書いてたんですが一晩明けた今やっぱりトイストーリー4無理です。ごめん。こんなにシリーズを踏み躙るラストがあっただろうか……。
ウッディが大切にしてきたことってとにかく人間に尽くすことじゃないの??た~~しかにそれはよくない自己犠牲で、彼がそこから抜け出して新しい世界に足を踏み入れたことはハッピーエンドなのかもしれないけど。
どんな形でもシリーズ3つ使って積み上げてきたウッディにとっての「正義」じゃん……。それをなかったことにして「正しい」道に進ませたからめでたしめでたし?
ま~~だ動機が「新しい世界を見たい」「多くの子どもたちを救いたい」ならマシだったけど(それでも許せないが)結局色恋のためじゃん!!!
自分の信じる(信じていた)正義よりも色恋に走るウッディなんか見たくなかったよ……。しかも大切な仲間との別れが伴うところも最悪。

というわけで結末が最悪だった大前提で物を語るけど、そこに至るまでは確かに素晴らしい点も多かった。というか涙腺壊れたかってくらいに泣いていた。
序盤の定番おもちゃたちのピタゴラスイッチで泣き、アンディーとの別れの回想で泣き、……、ジャビーが迷子の子どもを救うところで泣き、……。良い続編だと思った……のにな~。
たった一人のために尽くすのか、誰か特定ではない多くの子どものために尽くすのか、自分の道を行くのか、おもちゃの生き方を問う展開 もそれ自体は素晴らしかったです。新しい切り口だったからね。おもちゃ特有の描かれ方ではあるけどとても人間らしくていじらしい。
た~~だボーの無双はいらなかったな……。ちょっと過剰(ウッディを下げすぎ)でそれまで脇役だった彼女がなぜ突然?という感じだし。女性の社会進出がどーたら言う社会派問題は創作表現には求めないので知らん。
もちろんウッディをある程度下げるのはその後の彼の活躍に対して必要だったとは思うのですが。それでもね~過剰だったね。確かに情けないところはあるけどそこまで無能じゃないよ僕らのかっこいいリーダーは。
ウッディの、敵でもおもちゃを見捨てられない面がよく描かれていたのも良かったです。ジャビーたちも最初は怖かったけど彼女にもドラマがあって……というのもトイストーリーらしくておもしろくて。彼女が救われる描かれ方で本当に良かった。
バズとの信頼関係が分かるのも良かった。確かにバズはウッディの無謀には付いて行かなかったけど、それでも彼らの関係は破綻せず、のちにどこそこで落ち合おうと約束するところに相棒たるゆえんが感じられた。
というね……結末を除くならボーの無双以外は良いとこだらけの作品だったんですよ……。映像作品としてのクオリティが高いのはもちろん、物語としてもおもしろくまとまっていてテーマ性があって。
だからエンディングの最中、ボー(たった一人のためには尽くさない、自分の道を生きる強い女性)と別れるかと思っていたとこまでは「この映画を見られて良かった……」と思っていたのです。自分の正義を貫くために愛する女とも別れるウッディの脆い強さが愛おしかった。二人が一緒にならない結末によって、人には人の信じる正義、生き方がある、尊さがえがかれていると思っていた、のに……。
け~~っきょく女かよ!!!!!!ボーを抱き締めに走った時点ではまだ(ボーがウッディたちに付いてくると思っていたので)「あ~結局正義の多様性は色恋の前には無力な落ちなのか……」とちょっと残念なだけだったのですが、ウッディがボーに付いて行く結末を見て、は!!???頭ポカーン( ゚□゚)

人様の感想を見ない時点でこの文章を書いているので、これが純粋な私の感想です(現在賛否両論ということだけは知っているだけ)。これから人様の感想、意見を見てきます~~意見変わるかな??
とりあえず現段階では、客観的なクソ映画ではなかったが私にとってはシリーズを踏み躙る極悪非道の続編だった。結末によって全てが台無し。作られないほうがまし。逆にありがとう。という感じです。

22日追記
他の方の感想を読んでみました。肯定的意見に関してははあ~~ふざけんな???という怒りでまともに読めず、批判的意見に関してはふんふんとなりつつそうでもな?という感じでまあまあ冷静に読むことができました。自分の意見に盲目的になるのはよくありませんが、それだけこの映画が私を怒らせるものであったということなのでしょうね……。
肯定的意見の言いたいことは結局、ディズニーは現実を教えてくれようとしたんだ、新しい世界を見せてくれたんだ、ということでしたが、そんなの「トイ・ストーリー」の4を使ってやる必要はなかっただろ!!というのが正直なところです。シリーズにはシリーズの積み上げてきた世界観があるのだから、それを踏みにじってまで高尚なテーマを扱うべきじゃない。
それから批判的意見でウッディを本当に愛しているんだな……という方のものを読みましたが、当たり前やけど全部に納得できるわけではありませんでした。私が許せないのはとにかく最後のウッディの選択、物語の答えなので……。ウッディの扱いが酷いこと自体は(過剰なボーageの踏み台扱い以外は)その後の彼の活躍への布石として受け入れられた。た~~だ確かに、アンディが「僕の友達を大事にしてくれる」と信じておもちゃを託したボニーが露骨にウッディだけを仲間外れにするのは良くないな~と考えを改めました。
トイ・ストーリー4がクソ映画だという考えは強まりました。めでたしめでたし。
-----

好きなもの 編集

No.109

感想です。
-----
とりあえず絵がかわいい。女の子がかわいい。シズクがかわいい。恋をする女の子がどの子もキラキラ輝いているんだ…。
メインヒロインのココロ落ちか、シズク落ちか…といった展開が考えられ得る漫画でしたが、最終的にレイジとシズクが一緒になったときに、安直な「ココロの負け」といった描かれ方がされていないところが、この漫画で一番好きなところです。
レイジ、シズク、ココロ、3人が3人いたからこそ今の彼らがいる。レイジがいたからココロは一人前の天使になれて、ココロがいたからレイジは恋心を思い出せて、シズクがいたからレイジはココロに優しくできた。恋人?幼馴染?友達?呼び方なんてどうでもいい、この恋が結んだ名前もない特別な繋がりがただただ尊くて…。
作者さんの後書きにあった「恋についての物語の中では『結ばれる人』『結ばれない人』が出てくる。一人ひとりが思いやりをもって考え抜き、その時その場でできる限り気持ちを伝え合いその上でたどり着いた結果であれば結ばれたかどうかは大した問題ではない。短期的には苦しくとも長期的にはハッピーエンドである」が答えだなあ。と、最後のココロの笑顔を見ながら思います。

いわゆる主人公がモテまくるハーレムものの漫画ですが、主人公レイジの凄いところは一貫して幼馴染のシズク一筋なところです。最後までぶれなかった。しかも第2話でさっそく告白しますからね。ぐだぐだ告白を先延ばしにしたり聞き間違えたりする漫画が多い中で。漢かよ……。
顔は良いし、優しいし誠実だし。全2巻という短い中でしたが、彼なりの成長も描かれていて、物凄く好感を持てる主人公です。
シズクはただただかわいい…。黒髪ショート半目ちゃん、という私好みのあざとさですが(笑)そのひいき目を抜いてもかわいいです。恋が分からない!体で実践!のなんと勇ましいこと…。

先程ヒロイン二択に触れましたが、最後まで読んだ今となっては、ココロ落ちはラブラッシュという物語の答えとしてはあり得なかったのかなあと思います。確かに幼少期にレイジと思いを通わせていた時間はあったのですが(尚この後キューピッド族の掟により引き裂かれ、レイジは記憶を消されます)、それもレイジに恋心を思い出させるための布石に過ぎなかったのではと。
ココロはキューピッド族として自分の恋を大切にしできる限りを尽くしましたが、それでもやはり(人の恋を成就させる)キューピッドとしての使命、もといキャラクターとしての役割をまっとうしたのだと思いました。そんなココロが、ココロという切ない女の子が、好きいいいいい!!!!
本当にかわいい良い子だよ……。幸せになってほしい。幸せになれる強さを持つ女の子だと思います。

ラブラッシュ!はいわゆるジャンプの打ち切り漫画だったのですが、本当にもったいない……悔しいです……。
レイジと友達二人の3バカの友情とか、従者と使い魔の擬人化とか、サブヒロインたちの(新しい)恋とか、もっと見たい!と思える要素がたくさんあったんですが。メイン3人の尊い関係についても、巻数があればさらなる重みを出せただろうに。
絵は文句ないクオリティだし、キャラデザは秀逸で、ストーリー構成もしっかりしている、可能性を秘めた漫画だったと思うのですが。すぐ打ち切りにするジャンプぇ…………。

ジャンプへの文句が締めとかいやだなー。
ラブラッシュ!私は本当に好きで、全力でオススメしたい漫画です!!!

余談)
作者さんの「一人一人が思いやりをもって考え抜きできる限りを尽くせば短期的には苦しくとも長期的にはハッピーエンドである」がすごく印象的で、(創作における)信条にかなり影響を受けています。
そういう物語が私は描きたい。
-----

好きなもの 編集

No.108

感想です。
-----
なんや一般人にも広く認められてる作品で、感想サイトも多いので紹介するまでもないですが…。
正に、人から人に届ける「聲(思い)の形」をえがいた作品だと思います。泥臭くも人間らしいキャラクターたちがもがき苦しみながら互いに心を通わせて生きるお話。
個人的にイジメ〜再会までの流れが完璧で完成され過ぎていて、このエピソードが「聲の形」本編で、後に続くメインのお話は後日談くらいに思っているくらいです。
ショーヤの退屈な人生に飛び込んできた異星人西宮。不器用で子どもだったショーヤは、耳の聞こえない彼女に聲を届ける術を知らなかった。アプローチは結果としてイジメになってしまう。
でも、ショーヤは誰よりも西宮自身を見つめて積極的に関わっていたんですよね。そこにはみんなのするような「耳の聞こえない障害者」に対する見下しは微塵もなかった。小学生男子が好きな子にちょっかいかけるのと同じようなものだった。ただちょっとショーヤに行動力があり過ぎただけ。子どもならではの無邪気さ。
(いじめを肯定するわけではありません。ショーヤがしたことは客観的にはれっきとしたいじめ、唾棄すべき行動で、許されるものではありません)
最後に二人で取っ組み合いの喧嘩をしたときこそが二人の聲のぶつかり合いで、一番大好きなシーンです。いじめられても反抗することもなく、ごめんなさいごめんなさいとだけ言う西宮。一度でも腹の底にある気持ち言ったことあんのかよとショーヤは言います。
障害故に自罰的になって自分を出せない西宮は、このときだけ「これでもがんばってる!」と言ってショーヤに反抗します。なんて不器用な聲の形…。
そしてこのシーンがあるからこそ、ショーヤが西宮にしたことがただのいじめの枠には収まらないと自分は考えます。ショーヤは確かに西宮に聲を届けて、西宮もそれに応えた。それが取っ組み合いのときの西宮の笑顔に表れています。
聲の形はちょいちょい「いじめられっ子がいじめっ子を好きになる、いじめ賛美漫画だ」と批判されますが、西宮がショーヤに恋するようになったのは、彼女にとってショーヤがそもそもただのいじめっ子ではなかったことが根底にあるので、いじめを賛美してるわけじゃないんだよ!と返したいです。
最終的に西宮を転校させたショーヤは高校生になってから西宮に会いに行って、「忘れ物」を届けます。それから手話を使って「俺たち、友達になれるか?」と。あのときはあんな不器用な形でしか話せなかった俺たちだけど。二人の聲が通じ合った瞬間です。
ここまでのエピソードが完成され過ぎていて、ほんとにもうここで「聲の形・完!!!」でいいんじゃないかと思っちゃうんですよねぇ〜。もちろん以降の高校生パートも好きだから聲の形が好きなんですけど。
高校生パートは、二人のその後のお話を膨らませて、順当に行き着くところに行き着いてくれた感じ。漫画としておもしろくきれいにまとまっていて、読んで満足でした。

キャラ単体ではメイン二人は元より植野が大好きです!主人公に実らぬ片思いをする当て馬キャラという好みもあるんですが、彼女の良くも悪くもはきはきと物を言うところ、正面から相手にぶつかっていくところが見ていてとても気持ちがいいです。
植野もまた、西宮を「障害のある子」とバカにせず個人を見て聲を届けようとしていた一人でした。彼女の場合、ショーヤが好きだからそこに割り込む(と思い込んでいる)西宮憎しでいじめをしていていたわけで、それもまた許されるものではないのですが。でもその根っこの感情は醜くもいじらしいものです。
何より、西宮の自罰的性質、そして周囲との対話を諦める姿勢を一番分かっていたのは植野でした。それもまた植野が西宮にまっすぐにぶつかっていたからで。西宮を嫌いと公言する彼女がそうというのはある種の皮肉でおもしろいところです。
植野は確かに性格もきついし悪いところもたくさんあるのですが、彼女がショーヤにかけた「インガオーホーなんてくそくらえ!」の言葉に私は救われました。罪を悔やんでも負けはしないぞという強い意志を感じました。
見るからに当て馬な彼女ですが、私は原作を読んだ時点で、「聲の形が言いたかったのは安直な恋愛関係ではない、ショーヤと西宮の関係は高みに持っていかれた」と感じたので、植野にもワンチャンある……と信じていました。そんなところで、ファンブックにてそれと匂わすような記述もあり…………よっしゃああああああ植野厨大勝利!!!!
もちろんショーヤ×西宮萌えではあるんですが、黒髪幼馴染を応援したい気もあり……植野のほうが西宮より先にショーヤに出会って恋してたんだからさ……。
何にせよ本編では明言されなかったので、想像の余地のある部分として堪能したいです。
まあ、ショーヤが西宮を好きなのは9割がた確定なんですけどね!!!!妄想くらい自由でいいじゃない…。

他にもメインキャラみんな、物語に深みを出す良いキャラだなーと思います。
河合さんが見ていてすっっっっっごい不快で、ここまで見る人を不愉快にさせられるのはすごいなーと思います。人間的には大嫌いだけどキャラとしては好…いやむり…。
真柴くんが見ていて痛快です。「他人様」で少し反感を買うかなーとも思うのですが、あそこでショーヤを殴ったのは許せないからじゃなくてショーヤ自身が殴られたがっていたと分かっていたからじゃないかと思うのです…。

それから大今先生の絵・漫画がめっちゃ好きです!!
老若男女描き分けられて表情豊かなリアル過ぎない柔らかな絵……私が漫画を描く上で理想としている絵です。
とにかく西宮がかわいい!くるくる動く表情。植野の妄想の中の小悪魔西宮もソウキュートです。植野の気の強い雰囲気も好き…河合さんも顔はかわいい…。
そして大今先生は「漫画」の描き方がうまいなーと思います。表現が単なる「絵による説明」になっていない。テンポが良い。余韻がある。背景も緻密にえがかれていて、漫画作品として非常にクオリティが高いです。

良い感じに締められんかった。聲の形おもしろいので短いしオススメです。映画は観なくていいです。
-----

好きなもの 編集

■全文検索:

-->searchmode

■複合検索:

  • 投稿者名:
  • 投稿年月:
  • #タグ:
  • カテゴリ:
  • 出力順序:

■日付一覧:

■カテゴリ:

Powered by てがろぐ Ver 4.7.0.