カテゴリ「好きなもの」[31件](2ページ目) - てがろぐ - Fumy Otegaru Memo Logger -

カテゴリ「好きなもの31件]2ページ目)

No.93

書いていきたいと思います。
漫画の性質上、下ネタに触れますのでご注意。
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1巻から全力でかっ飛ばす漫画だなあと思いました。コンセプトは「義姉に射精管理される」なのですが、毎話毎話違ったフェチを入れてきて読んでて飽きない。それどころか毎回見せ場が強くて圧倒されます。
この調子を持続してくれれば名作になる予感がします。すぐに息切れしてもおかしくない程の密度なので、そこは作者先生たちの力見せどころなのでしょう。期待大です。
個人的には浩太の夢が足でされるシチューばかりだったのが最高に好印象です。おまえ足でされるの好きなんかい。私も好きだよ。途中で保健の先生も加わった回なんかはよしよし成分もプラスで大変私好みでした。

兄へのコンプレックスを根っこに陸上選手としての成長、努力、我慢を描いた、少年漫画のような熱い魂のある漫画だと思いました。そこにエロが濃厚に絡んでくる!エロありのストーリー漫画として最高の配分だと思います。そこはさすが原作者の原田先生の力だなあ。
画はさすがかろちー先生です。恭子さんが美しエロい、そしてかわいい!勝気な「絶対服従♡」には正に服従したくなるし、ころころ変わる元気な表情、健康的な肉体、動きがたまりません。

恭子さんはお兄さんに捨てられた形になるのだろうか…。妄想なのですが「性欲なんかに負けない」がこの作品のテーマだと思うので、もしかしたらお兄さんは性欲に負けて陸上を引退したのではないかな?そのへんで恭子さんとゴタゴタがあって距離が生まれてしまったのでは。
そこが浩太の付け入る隙だと思うので、鉄壁の恭子さんをなんとかして寝取って救済してほしい…。陸上でも成功して女も手に入れればそのときこそ弟が兄を超え打ち勝つときです。なんて熱い、スポ根漫画的展開!
エロ成分が強い漫画ではありますが、根底にあるのはストーリー、キャラ性、スポ根なので、成人向けではむしろやっていけないんだろうなあ。と感じました。そう考えると青年誌でやっているのは見事な采配なのではないかと。

陸上をがんばる浩太ですが、動機がある意味不純なのがかえって人間くさくて好印象です。「兄が途中で放り出したから自分が続ければ兄に勝てると思った」「本当は陸上なんかどうでもよくて恭子さんのそばにいたかった」、たまんねええええ好きです。
恭子さんも実に科学者気質で鉄壁で不器用でかわいい!萌えです。周囲に否定されても自分の研究を追求するストイックさがたまんねえです。がんばってほしい。
そして、恭子さんと同居し始めて恭子さんの本性を知っても、浩太がどん引いて恭子さんを好きじゃなくなる、ことにはならないところがまた良いなあ。むしろより好きになっている感じがして…。本当に恭子さんが好きなんだね。

これからは保健の先生が出てきて、「出したほうがいい」vs「我慢したほうがいい」の戦いになりそうで、以降の展開への期待が止まりません。
失速せずに走り抜けてほしい作品です。2巻を楽しみにしています。
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No.89

感想
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<span style="font-size:x-large;">ラキクレが好きです!!!!!!</span>
妖魔に襲われてすべてを失ったラキがクレアに救われたけど、実はかつてクレアも同じようにテレサに救われていた…。クレアがラキに言った「一緒に来るか?」は、かつての自分が一番欲しい言葉だった。という救いの連鎖が好きです。
ひとりぼっちになった子どものときのクレアは、同じように傷を抱えてこっそり心で泣いているテレサを抱きしめる。それは自分が一番してほしいことだったから。テレサを救おうとすることで自分自身が救われていた。「自分がしてほしいことを誰かにしてあげて救うことで自分自身が救われる」という救済の形も好きです。
クレイモアは、戦う女戦士萌え!アクション!ダークファンタジー!という魅力はもちろんあるしそれらが一番有名だと思うんですが、私が一番注目して愛したいのはこの救い救われの二点です。
最終的にクレアと離れ離れになってしまったラキは仲間を見つけながらも一人立ちして、そしてクレアが自分にしてくれたことをまねてプリシラと一緒にいることをしてみる。クレアに少しでも近づきたくて。そこがまたおもしろいドラマになっていて好きです。
ただ最後のここの関係は、救い救われにはなりきれなかった、プリシラを救うことはできなかった…というのがまた趣があって好きです。

リアルタイムで追っていたときはロートレクの灰塵あたりが少し間延びし過ぎかな?インフレ起きてない?と心配だったのですが、完結した今改めて最初から通してみると、終始熱い怒涛の展開の連続でおもしろく読めました。たぶん月刊誌の都合上半年に一回しか単行本が出ないので待たされる期間が長く、そしてラキの再登場、ラキクレの再会を願い過ぎていたために展開を急いでしまっていたのでしょう。
そして何より、別にパワーインフレは起きていなかった、最強の敵は序盤から変わらずプリシラのままで、そしてプリシラを超える最強のキャラも変わらずテレサのままだった、という終わり方が実に見事です。後期の怒涛の展開はプリシラの強さを後押しするためだった。そしてそれに打ち勝つテレサの強さが最終巻でこれでもかとばかりに描写される。こんなに痛快で後味の良い終わり方をする漫画はなかなかないです。
長期に渡り連載されていた作品ですが、全体のテーマや雰囲気を変えることはなく、初志貫徹して伏線も回収して描くことを描き切って気持ちよく終わってくれた印象です。そこが好き。
双子の女神のテレサとクレアという象徴がたびたび登場していましたが、最後の戦いでそれが意味あるものとして登場する演出もまたニクい!!鳥肌が立つレベルです。

7年経って大きくなったラキがイケメン良い男おとな過ぎます。読んでいるとあまりにどこか悟ったふう「そのときにプリシラが食べるのは俺の内臓だ」ニコッ、なので、リアルタイム当時は逆に心配になるほどでした。7年のうちに子どものときのラキはどこかへ消えてしまったのか…人間性を失ってしまったのか…とつらかったです。
でもラキが、プリシラとともに封印されたクレアに呼びかけるとき、あのときのままの素の部分が出てくれて本当にうれしくほっとしました。「クレアといると俺はあのときのガキんちょのままだ」
そしてかつてクレアにかけてクレアを救った言葉をまた繰り返して、それによりクレアを呼び戻す。この展開が実にラキクレ的に神!!!!!ラキクレの再会を待ちわびてクレイモアを追った数年間ですが、その長い時間も報われた気がしました。読んだ当時は萌えとかどうこうじゃなくてただただ何かに感謝するしかなかった…。八木先生ありがとう。合掌。

キャラとしてはやはり主人公のクレアやラキ、テレサが別格で好きですが、個人的にヘレンが好きです。ガサツでちょっとおバカで分かりやすく「人間」くさいヘレンがかわいい。デネブとの絆もまた熱くてー。
何気に冷静で落ち着いたように見えるデネブのほうが豪胆で乱暴だったりするのもまたニクいです。デネブも好き。
ミリアは文句なしにかっこいいです!!!!!!一度目の単身組織襲撃のときに死んだと思わせる描写があったとき、えっミリア????いやでもミリアは死ななくない????みたいに戸惑いを覚えつつ次の巻を待ちました。そして実は生きていた!展開が熱くてかっこよすぎて…!ミリア隊長ーーー!!!
「死んだと思わせておいて実は生きていた」展開って、描きようによっては大きく失敗してしまう難しいところだと思うのですが、ここも八木先生はうまく熱くかっこよくおもしろくクレイモアらしく見事に描き切ってくれて、「なんだー生きてたのかよ」といった拍子抜けた気持ちは全くなく、ありがとう!!!!!!ミリア隊長生きていてくれてありがとう!!!!となりました。
ミリアは隊長としてはあまりに優しすぎるのが欠点ですが、その優しさ、甘さこそに惹かれて心を動かされて、あの場にいた戦士たち全員がミリアとともに組織に刃を向ける決意をした、というのがさいっこうに熱いです。
そしてそれからガラテアも好きです!!!!!!!ガラテアは美しい…そして強い、かっこいい。自分を受け入れてくれた大切な街を守るため、自分を倒すことのできる強さをもった戦士が妖気を隠して近づいてくるのを利用して、手を組んで街に潜む覚醒者を倒そうとした、というのが、サイコーにクールでかっこいい!!さすがです。
しかしその作戦がクラリスの愚直っぷりに崩され、敵に貫かれたとき。よくもまあそんな無謀なことしたわねぇみたいに揶揄されたのに対し、クールに「自分でもそう思う。だが意外と悪くない、おまえもやってみろ。オススメだぞ」って言ったのが!!!!!!!!!!かっこいいーーーー!!!!!!!姐さんしゅてき。酒豪なところもしゅてき。

というわけで結局誰がキャラ単体で一番やねんということですが、決められません。クレイモアの女戦士たちが、キャラクターたちがそれぞれに背景にドラマを持っているところもこの作品の好きなポイントです。
今日最後まで読み終わって、ほんっとーーーーーに読後感の良いダークファンタジーだな!!最高だな!!!!となりました。八木先生ありがとう…。満たされた気持ちになれました。
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No.75

comicoで連載中の<a href="http://www.comico.jp/articleList.nhn?tit...未完成定理</a>について
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‪※)たぶん未完成定理の中では、潔癖症や睡眠障害は「障害」というより「個性」という扱いなのかなー。そういうイメージ。それがまた一つの救いでみかんさんのえがく優しい世界の形だと思うので、好きなんですが、以下では便宜上統一して「障害」という単語を使います。差別的意図はありません‬
※)考察や妄想や願望がひどいですが、あくまで一個人の勝手な考えに過ぎず、展開予想やクイズ回答の意図はないです。素敵な作品を見て思考が暴走してしまったかわいそうな人なんだよ

‪ひとまず久しぶりの未完成定理!39話読んでニコニコしました。くおはかっこいいよ!!!イケメンだし有能だけど闇を抱える噛ませ……好き……。天然無自覚な眠花ちゃんが罪深い……。確かくおの過去って直接描写はなかったですよね?そうみんくおの三角関係に決着が付くあたりでくるかな〜楽しみ。宗司が優しい人たちに囲まれていて優しい世界に泣きそうになった。困難を抱えながらも優しい世界で生きる人たち…‬
‪ぽてさんの絵は絵柄がぷにぷにしててかわいいのはもちろんだけど、魅せ所を分かっているのが好きなんだなあ。私があんまり細か過ぎる描き込みを隅々まで見られないタイプなので、さらっと描かれてて、ここぞ!!っていうポイント、萌えどころがある絵が好き♡‬

‪‪同情について考えるときに私はよく未完成定理の"「同情」じゃなくて「同意」"を思い出してニコニコする。2話「有名な人」。宗司が眠花に対して示したのは同情じゃなくて同意だった。このときの「同情」はやはり人を下に見て哀れんで…というマイナスの意味なんだけど、あーきっと二人は今までそういう不本意な目線を向けられて傷付いてきたんだな…そんな中お互いに対等に同じものを見ている相手に出会って共感できて救われた(救われようとしている)んだなーと思って、そこがとても好きなのでニコニコする‬
‪人とは……と悩むに際し障害の問題をすごくよく考えてしまう。私個人は障害をあくまで単なる客観的事実としての機能不全と考えていて、それは「通常」人間に備わっている機構に変化が生じている状態というだけで、決して人間的優劣とかそういう意味は一切持たないと思うのですね。なんか当たり前のこと言っててごめんですけど‬。別に障害があったってなんら悪いことではないんだよ
‪でもやっぱり障害を持っている当事者にとって、単なる差異であるはずの「他人との違い」って結構な重荷になることがあって、人と同じように同じようなことをすることができない、周りと違う自分は人として劣っているんだ、と気にして自分を責めてしまったり。あと単純に周囲の人と見ている世界が違うことに関して疎外感を感じていたりとか。当事者ではない者が事例を述べているだけでみながみなそうと言うわけではないです‬
‪私は宗司でも眠花でもないので想像するしかできないんですが、人とは違う自分であるが故に劣等感や疎外感を感じてきたかもしれなかった彼らが、全く同じではないながらもお互いに抱える困難を認め合って、対等な目線で「つらいよな」って「同じ」思いを共有することができたというのは、彼らにとってすごくすごく尊い救い、奇跡のようなことだったのではないかと思うのです‬
‪ぶええええ良かったなあほんとしゅきいいいいい(´;ω;`)‬
「人とは違う自分」を抱える人たちが出会って救われて惹かれ合って…というのが未完成定理の未完成定理たるゆえんだと(勝手に)思っているので、このエピソード、超序盤でさらっと出てくるけどとても好きです‬。末尾のぽてさんのたった一行のコメントでぶわっと妄想が広がって止まらないので罪深い

‪あとさらに書くと私は9話「彼の根源」がべらぼーーに好きで……たぶんこれ以前にぽてさんに言ったことがあると思うですけど。宗司が自分の潔癖症が理由で大好きだった剣道を手放してしまったことに対して「しょうもねえ理由」と言うシーン。障害(特に目に見えないもの)って結局普通の人にはとても理解し得ないもので、たぶん周りからは「なんでそんなことでできなくなるの!?」「我慢すれば(がんばれば)克服できるだろ」「剣道への愛が足りない」とか、心ないことをいろいろ言われてしまったんだと思います。それ故に、自虐せざるを得なくなるほどに追い詰められてしまったのではないかなあと。いやまー何言われたかはしょせん妄想でしかないのですが、でも絶対いろいろ言われてきただろ!!!つらかったんだろ!!!っていう妄想を掻き立ててくれるこのたった一言がもーー好きで好きで‬
大好きだったものを手放さずにはいられないくらいの理由だから「障害」なんですよね。宗司によってはそれだけの重大な理由だったのだけれど、たぶん自分自身そんな自分が許せなくて、周囲の人がするのと同じように自分を責めたんじゃないかなと思うのです。なんでこんなことでできなくなるんだ、こんなしょうもない理由で。そういった自虐、自責から出た言葉だったんじゃないかと。精神的自傷に近いかなーー。自分でさえも自分を傷付けながら、理由を「しょうもない」と軽く扱うことで、自分の抱える困難はなんてことないことなんだとして、不器用に自分を庇おうとしていたのかなあ
‪未完成定理はキャラたちのラブコメがメインだと思うので、障害の詳細をありありと細かく描写…という作品ではないんですが、設定が単なるアクセサリーで止まっていなくて、障害があるからこその本人の抱えるつらさが、端的な描写でここぞってときにここぞとばかりに描写されてドラマになっているところが、好きいいいい!!!!それもぽてさんの、魅せ所をわきまえているうまい描写力だなあと思います
障害について勉強されたか、ご自身何かしら経験されたか、分からないのですが(各話末尾コメントのどこかで触れられていたような……なかったような?把握しきれてなくて申し訳ないです)、デリケートな問題と真摯に向き合って丁寧に描かれたのだろうなと感じます。上から目線に取れたら申し訳ないです、自分自身ど素人のにわか知識であり、そういった意図はありません
裏話というか、未完成定理を描き始めた動機とか、開始に至るまでの経緯とかを特集した番組が見たいと思いました。笑 完結後でいいので後書きに書いてください!!!!!(悲痛な叫び)

以下は自分語り多くてすみません
未完成定理に出会ったのはツイッターのフォロワーさん経由なのですが、最初はおっかわいい絵やんけ〜キャッチーなテーマやな!好み!もっと見せて〜なって感じでかるーくぽてさんをフォローさせて頂いたのですが、まさかのフォロバを頂いてしまって
ちょいちょい構って頂けるので、リアルタイムで反応が頂けると俄然張り切ってしまって、ちょいちょい語りなどを書いて送ったり送らなかったりしていたのですが、読んで語れば語るほどおもしろさに気付いて未完成定理の魅力にずぶずぶとハマっていってしまって、今では立派なジャンキーです。笑 というか今回アプリをやっとダウンロードしてみかんさんのみんなに久しぶりに再会して、何の気なしに感想めいた独り言を書き始めたところで完全に落ちるところまで落ちました。\文明開花!!/
ぽてさんの絵も作風も、重厚な世界観!複雑なストーリー!綿密な描写!といったふうではなく、基本的にかわいいキャラたちのばたばたラブコメ群像劇だと思うのですが(勝手な印象です。不快にさせてしまったらすみません)、さらっとこちらの心を鷲掴みにしてくるような、とんでもない威力の描写があるので、大変罪深いです
私個人はあまり、恋愛のみ最優先の少女漫画とか、かわいいキャラたちの日常劇みたいのはここまで重苦しくハマるほどの好みではなくて、人間とは……心とは……みたいな妄想を掻き立てる心を抉ってくるドラマティックな話こそが一番心を掴まれるのですけど
未完成定理の緩めの絵柄とかわいらしいラブコメ群像劇の背後にある、ここぞというポイントを抑えた人間の心のドラマが、インパクトがすごい!!!!!!
ズブズブ深みにハマってしまって、我ながら気持ちが悪いので、他の心が綺麗な読者さんからしたらどん引きなんじゃ…とか思ってしまいました。笑
恥ずかしながら無課金組なので、40話以上の群像劇を隅から隅まで把握し切れてはいないのですが、人間の心のドラマと言えば思い出すのは鈴ちゃんだなあ
親を前にしてる思いを爆発させたときの彼女が、彼女の思いが、狂おしいほどに人間くさい「女」で
そういうキャラがどんぴしゃりで大好きなので、エピソードをサイトで見た当時は稲妻に打たれました。食いしん坊な愛すべきおバカキャラ、親とやかましくどつき合い夫婦漫才を繰り広げる鈴の良い意味でのギャップにとても惹かれました。いやーもうかわいいよ鈴ちゃん。愛に飢えて渇望してる勝手なイメージ
あんなゆるかわいい見た目のプリティーな美少女八重歯っ娘を、あんな重厚に描き上げるだなんて、ぽてさん罪深い(3回目)
私は無課金制なんですけど、理想は紙の本が欲しいんですけど、課金が単行本に繋がるとも思うのでお布施がしたい……
課金経験ゼロなので制度を学ぶところから始めなきゃなんですが、真剣にやる方向で検討中です。とりあえず今しばらくは過去話で食い繋ぎながら更新を待ちます!

(以下、以前読んだときの記憶で書いてしまったので細部間違ってたらすみません。だからいつでも読み返せるように課金をな〜!いずれきちんと本編確認してみて言ってることがおかしかったら訂正しますのでひとまず溢れる思いを今吐き出させて…)
入れどころがなかったので唐突に言うけど、宗司は初対面時は眠花にわりと辛辣で、障害のことを知ったあとは特別扱いというのではなく単に心配だから世話を焼いて一緒に過ごしていくのですが、後々初めて眠花が倒れるように眠りに落ちる瞬間を目にして愕然とする…という流れがとっっっても好きです。眠花のことを「睡眠障害のある女の子」としてじゃなく「世話の焼ける、眠花という女の子」として個人を見て関わっていく宗司の姿ってとても素晴らしくかっこいいもので、きっと眠花にとって救いだったと思う(願望)。一緒に過ごすうちにだんだん距離が縮まっていって、うっひょひょ〜いラブコメ良いですぞ〜!となっていたあたりで、突如として「障害」が壁となって重くのしかかる…という構成が…ニクい!
障害なんかものともせずにお互いがその人個人を見て思いやって対等に過ごせたらそれは理想的なことなんだけど、理想はそんな簡単には叶わない、それが障害というもので…。実態を知らなかったとはいえ、宗司が確かにどこかで睡眠障害を「軽く」考えてしまっていた(だからこそ眠花を「障害のある子」として扱わずに済んでいた)というあたりが、生々しくて良い展開だなあ。そして宗司が眠花の抱える困難を初めて本当に理解して、さらにお互いが分かり合って近付いていく、という、人と人との関わり合うドラマを感じました。好きよ

救い救われ…みたいな関係と物語が好きなのでそうみんが鉄板で至高だけど、噛ませ好きとしてくおの存在が頭から離れなくて……先に出会って先に眠花に救われて先に眠花を好きになったのはくおなのに、三角関係の結果が火を見るより明らかなのでー!!つらいっっっ!!!近くて遠い残酷な特権が残酷過ぎて私まで落ち込むレベル。つらい…………
でも灯さんとのフラグがあるので、彼のゆくすえが幸せなものだといいなあ。信じてる(願望)。くおの抱える闇を照らしてあげて。頼みますよぽてさん…。みんくおの過去編も、どんな扱い・描かれ方かは分からないけど、待ってます!!!!
ところで地味に気になってるんですけどくおがなぜ16話まで影も姿を見せなかったのか??単なる構成上の都合(ある程度メインCPを近付けてから噛ませを出す)として片付けてもいいんですが実は背景があったりするのかなーと考えてます。結局眠花の睡眠障害の重さを受け止めきれなくて、(近い距離に甘えていたからこそ)距離を置いていたのかなとか。そして宗司が眠花と出会って仲良くなっていること(そして眠花のようすが少しずつ変わり始めていること)を知って、慌てて接近したのではとか……。妄想甚だしいですが!くおのことが好きなだけやねん。許してください。このへんの心情とかが番外編などで描かれたら飛び上がって喜ぶぜ。我は強欲の化身
噛ませキャラ大好きな身としては未完成定理で同人誌を出すなら原作矛盾御免二次創作としてくおみん成立いちゃいちゃ本を出…………イヤーーーーそうみん以外は地雷です!!!(>_<)でも別の世界の物語とか…夢オチとかならわんちゃんあるかな!?夢オチは自分の首を絞めそうです。笑(↑o↑)
こまむーとこなたちゃんのささくれた感じの関係も好き♡
ここぞとばかりにもっと雑多に書いて詰め込もうと思ったけどキリがないのでやめます…ひとしきり書いたのでもういいや…。結局感想というか考察ですらない私の思想や願望や妄想を書いただけ感強くてごめんなさい。また何か思い付いたら書きます。未完成定理が好きです。読んでくれてありがとう
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No.67

何か記事を書くネタないかなーと「創作 質問集」で検索したら、出るわ出るわキャラ設定の質問集…。別にええねんですけど、なんでこのワードでこればかり出るのか!?
現代において「創作」というワードを出すとキャラ設定をして語る活動を指す文化が本当に本当に本当に、どわああああああああいっっっっきらいです。きちんと創作をしている人口はきっと減ってはいないんでしょうけど、キャラ設定の方…うちの子界隈の人の声が大きすぎる。
こう書くと誤解されがちですが、私はうちの子活動を否定する気は<strong>一切ありません</strong>。好きですよーうちの子。自分で見た目や設定を考えて飾り付けたキャラクターです。愛着が湧くのも当然じゃないですか。
だけどそれは創作とは違うものだと思っています。正確に言うなら創作に至る前の準備の段階であると。
キャラ設定はアイデアです。そのアイデアを元に絵や漫画や小説を描いて表現し、作品を作る。その「表現する」「作品を作る」という活動こそが創作活動です。

ただ、キャラクターの設定を「考える」ことにも創造性が課されることは否めません。ですからその活動の時点で創作を名乗る。それもまたよいでしょう。キャラクターの設定を考えた、つまり創作した。それでよし。
ですがその後、その創作した設定を元に、ただひたすら言葉で語り続ける。このキャラはこんな性格で…だからこんな事件があって…こんな人と出会って…。全ては言葉で語られます。作品は作られません。その活動は果たして「創作活動」と呼べるのか?
起点となる作品(設定)を作った後は、何も作らず、ただ言葉で語るだけ。そんな状態は「創作活動をしている」と言うことができるのか?
「キャラ設定を創作と見なすか」という論点は自然数に0を含めるか否かという問題のようなもので、単なる宗教の違いの問題に過ぎないでしょう。本質はそこではありません。
「作品を作らずに言葉で語る」行為が「創作」には当たらない、ということを私は言いたいです。

「言葉で語る(設定する)」行為と「作品で描写する」行為には本質的な違いがあります。決して同一視することはできません。
作者の言葉によって説明された・語られた設定と、作中で描写された事実が食い違うことが起こり得るからです。例えば漫画作品で、設定上は「絶世の美女」とされているキャラがいるとして、けれども描画されたそのキャラの見た目はとても優れたものと評価できない、周囲からの扱いも「美女」にするようなものではない、そんな描写しかされていないというようなことも起こり得ます。これは設定と実際の描写の乖離です。
どちらが優れているか、ということは論点ではないので、読者がこの事実に直面したときに「設定」と「実際の描写」のどちらを受け入れるかは問題ではありません。設定を重視したがる読者もいるでしょう。それは個人の自由です。ただ、両者が乖離している、その事実だけは確固として存在します。
そして私が許せないのが「設定」と「実際の描写」を「創作」として同一視する、現代の文化です。

私個人の宗教としては、創作上で重視されるべき事実は設定ではなく「実際の描写」です。なぜなら「設定」は作者がいかようにでもできる中身のない口約束に過ぎないから。
極端なことを言ってしまえば、小学生のごっこ遊びに過ぎません。「俺が最強の戦士だ!」「俺はそれよりもっと強い最強の最強の戦士だ!」「俺はそれよりもっともっと強い最強の最強の…」何だってできますよね。
しかし作品上の描写はそうではない。設定どおりに描写するには、読者を納得させるには課題がたくさんある。設定を考えて、それらが発揮され得る場面を考えて、それらを破綻なく繋いでいって起伏とおもしろみのある物語にする。それには多大なる力・時間・労力を必要とします。端的に言えば、美人を美人として描くには相応の画力が必要です。
説得力のある描写に至るまでの苦労こそが、創作の難しいところであり、楽しいところでもあり、最も価値のあるところだと思うのです。
現代において、その価値を知らずに「創作」を知った気に、した気になっている人が多い事実に憤りが抑えられません。
あくまで設定は実際の描写を補足する程度のものでなければならない。実際の描写よりも設定の比重が多くなったとき、それは創作物ではなく単なるデータベースです。絵や漫画付データベース。

創作者にとって、設定とは語るためのものではなくえがくためのものです。それを同一視しているような人、区別が付けられないような人に、同じことをやっている気になられたくはない。正直に言って不愉快です。
端的に言えば、版権作品において、「このキャラとこのキャラはこういう関係で~」と、「設定を語る」人がいるとします。ではこのときその人は「二次創作をした」と言えるのか? 設定は創作ではありません。

「設定」と「実際の描写」の間に差異があるという事実についてのみ話をしているので、この件に関して「創作のべき論を語っている」と言われたことがありますが、実に心外でした。
「設定」と「実際の描写」が同一視できる、ということを客観的事実を根拠に矛盾ない理論で証明さえして頂ければ、私も納得して考えを改めます。感情論で語られても、それこそ「創作のべき論」の域を出ないので却下。
互いに「べき論」しか述べられないのであれば、単なる価値観の違いとして共存できますが、そうではないのでできません。

なのに現代の文化において「創作」というと「キャラ設定を考えて語ること」と同一視されるから、あーーーー本当にこの文化なんっとかなんねえかなあああああ!!!!!!最悪だあ!!!!!!!!!!!
言葉で説明できない世界を、言葉以外の手段で間接的に表現して!!!!その世界を読者と共有する!!!!!!この楽しみを知らないでおいて創作を語る…いや騙る人の多いこと多いこと!!!!!ありえへんわ!!!!!!!!!!!
私が漫画大好き物語厨なのでそちらを念頭においた話になってしまいましたが、一枚絵創作でも同じことです。ただ描写では語られない余韻が多く、その補完を受け取り手それぞれに委ねるだけ。それも一つの創作表現の在り方でしょう。

私個人の価値観として物語厨作品至上主義なので、そういう価値観を表に出してしまいましたが、私は本当に設定を考えて語る遊びも好きですよ。でなきゃやってねーですよ。サイトにもあるしツイッターでもたまに語ってるので見てね。
設定を考えて語る遊びを否定はしません。ただ私が作品…創作物が、物語が好き過ぎるだけ。
設定を考えて語る「遊び」という表現が反感を買うかもしれませんが、そこにも悪意はないのです。「遊び半分」といった、「本気ではない」という意味を持たせるつもりはありません。遊びは楽しい。心を豊かにしてくれる。息抜きになる。そういうありがたみのある活動だと思っています。遊びに本気になったっていいじゃない。

ツイッターでも普段からちょいちょい「創作と設定語りは違う!!!!」と叫んでいましたが、その答え・まとめとしてはこの記事が全てです。
ああ~~~うちの子活動を創作と同一視する文化、廃れねえかなあああ~~~。たぶんツイッターの台頭と共に広まった文化だと思うんですが…。廃れないだろうなあ。

余談)今どきは版権作品に投入するオリジナル主人公の設定を考えて語る遊びも「夢創作活動」というらしくてひえぇ~~~wwww修羅場wwwwww
余談2)質問集答えられんかった。

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No.55

 私はけっこう前から、「私は創作で生きてる人間をえがきたいと思っているのに、私のえがく人間はある点において決定的に人間性を欠いた人間だ」って言ってます。そしてちょっと前に、「それが私の全身全霊での『フィクションだから!』なのかな…」と思いました。
 フィクションだから!という身もふたもねーよーな内容に対する言い訳ってありますよね。そんなこと現実には起こりえないでしょ!不自然でしょ!っていうのに対して言うやつです。
 私のやってるのは現実の射影でも何でもないんだから、完全にリアル生活に則った人間をえがくことにはならない。そういうことなのかな……と、今日思ったのでした。
 あんまり、「フィクションだから!」っていう言い訳はしたくないんですけどね……。
 でも、こんな喋り方しなくない?とか目が大きすぎない?とか言われたら、フィクションですから!と返さざるを得ない。
 私の抱える矛盾は、そのレベルのものなのかな。「私は生きてる人間をえがきたいのに!私の描く人間は非常に目がでかい!!」というのと同じ。

 ただ実際、上でも言ったように、私は現実の射影をしたいわけではありません。確かに、今ここに生きている私達にぐっと迫るような話が描けたらいいとは思っているけどさ。
 でも本当に現実そのまんま「リアルに」描写したようなものがえがきたいんなら、そもそもそんなの必要ない、というよりは、ニーズがまるで違う。私がやりたいのはドキュメンタリーでもノンフィクションでもない。
 だから、人間っぽいのが描きたいくせにどっかで人間っぽくない、っていうのは、それを問題にしたら根本的に私のやりたいことが覆されるようなことなのかもしれませんね。
 今日はちょっと良いことに気付いたぜ。やった!

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No.54

ヴァシリーサは企画に参加して交流させようと思って作ったキャラです。他のキャラとは明らかに誕生した経緯が違います。
彼女はどこにでもよくいるような子供です。適度にわがままで意地っ張りで素直で正直、その他いろいろ。どちらかといえば見栄を張りがち背伸びしがちですが、それは凡庸の域を出ない特徴の偏り方です。
そこを思うと特に個性がありません。例えばカーティスは性癖がおかしかったり、エバンナは完璧だったり、たいてい私のキャラにはそういった極端な点があるのですが彼女にはありません。お花は好きですが、そこで抜きんでているわけではありません。

それは子供だからだろうかと考えました。子供だからまだ特筆すべき「個」が誕生していないのではないかと。
ところで、リデッカやフェリスも子供です。では彼女らは没個性であるかというと、それがそうでもありません。リデッカは馬鹿で頭が弱いところがむしろ個性。フェリスはあの箱庭への異様なこだわりようと強すぎる劣等感コンプレックスしっとが個性。

このあたりで、ヴァシリーサは企画のために作ったキャラだからか、と思いました。
リデッカにもフェリスにも元々彼女らのための物語が用意されていて、もしかしたらその中で個性が生まれたのかもしれません。しかしヴァシリーサは違います。元より彼女のための物語をえがくためではなく、キャラクター同士を交流させるために彼女は生まれました。

だからというわけではないですが、ヴァシリーサはとても子供らしいです。ある程度わがままで感情的で、行動や思考が非合理的で、変に勘が良い。彼女はこれからいくらでも、外からの影響を受けて変わることができるでしょう。彼女の前には無数の可能性があります。それが私の思う子供らしさです。
先ほど同じ子供キャラの例としてリデッカやフェリスを出しましたが、かえって彼女らはあまり子供らしくありません(と私は思います)。というのも、リデッカはその身の不足が既にステイタスとして定着しており、フェリスはその不足が明確に分かりきっているからです。足りていないことすら分からない、何も見えなくてさまよい模索するのが子供らしいと私は思っています。
ちなみにリデッカに比較するならばフェリスはまだ子供らしいです。自分は馬鹿で頭が弱い、でもそんな自分が私なの、だなんて確立させて開き直るのは大人のすることです。リデッカは仮にも子供キャラですが、まるでその特性は出ていません。

「子供」キャラが「子供らしい」こと、それが一概に良い点ではないとは思います。リデッカもフェリスもヴァシリーサも私は好きです。みんな違ってみんな良い。
ただ、ふとこのようなことを考えて感慨深くなったというだけの話です。

何とも偏った子供観を披露しましたが、共に私は子供は人間ではないと思っています。
考える頭があるのが(私の思う)人間です。では子供

(続く)
続きませんでした 2017.11.

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No.53

 私がよくやる、オリジナルキャラクターがすっげー出てくる二次創作について考え直しました。原作が大好き!!!とのたまいながら、どうして原作に異物を突っ込んだ二次をやってしまうのか。
 二次をやっている時点で大なり小なり原作の改変にはなるのですから、オリキャラに限って突っ込むのもおかしな話かもしれませんが。でも作中で描かれていないところを勝手に解釈して描くのと、異物(=オリキャラ)を突っ込んで既存のストーリーや人物に関わらせて既存の世界を描くのって、程度にかなりの差がありますよね。人物、というのは物語世界を構成するにおいて大きな要素となりますし。

 人物はその世界を構成する大きな要素となるのは事実であると思います。
 そしてそれとともに、人物を構成する大きな要素となるのは、ひとつに、その人物を取り巻く他との関係ではないかとも。
 メタベイのチームダンジョンだったら、彼らはダンジョンジムという組織に所属しているわけで、組織の構成員はあの三人だけでないはずだから、彼ら以外のジムのメンバーとの関係はあって然り。
 タクティクスのザルバッグだったら、彼は北天騎士団という組織に所属しているわけで、以下同上。
 すでに原作にある関係(たとえばジム内の仲良し三人組だったり、兄弟だったり)ならば、そこにあえてオリキャラを突っ込むことは明らかに原作破壊ととらえられますが、原作にはない、しかしキャラの立場や境遇から考えてあって然るべき関係を描くためにオリキャラを使うのであれば、私の中では(あくまでも私の中では)大義名分が生まれます。

 立体がそこに存在しているとき、様々な角度から眺めて初めて立体であることが分かります。それと同様に、人物がそこに存在するとき、様々な角度から眺めて初めてその人物全体をとらえることができる。
 私は人間の多面性が好きです。誰に対しても、いついかなるときでも、同様の反応しか見せないなんて(それはそれでおもしろそうですが、いまこの場では話題にしません)、そんなの人間じゃない。
 いろんな方向から描かれる人物を見たとき私はとてもわくわくします。その人物が確かにその世界に存在しているのだなと実感することができます。
 そういう感覚を味わいたくて、原作好き好き!と言いながらあえてオリキャラを使うのかなあと思いました。

 とはいえ、私がよく描くオリキャラと既存のキャラクターとの関係が「あって然るべき」範疇を越えているのは明らかです。
 そのへんは単純に、私の趣向故でしょう。いえもちろん、上述した内容すべては私の趣向でありますが、それらの理由が文章で長々とこじつけられるのに対して、私がオリキャラと既存のキャラクターとに行き過ぎた関わりを持たせたがるのは、ただ「私が好きだから!」「萌えるから!」とかしか言いようがありません。

 ただし、「アカシアの花」は少し例外かなと思いました。あれはただ単に、「カーシュに片思いするアカシアの龍騎士」の物語を私が描きたかっただけです。カーシュの人間がどうのとかぜんぜん考えていません。
 大義名分は、クロノクロスの世界観が好きでそれならではのものを描きたかった、という願望に見出すことができます。分岐された世界で抱える喜び悲しみ苦しみです。
 好きな人が向こうの世界では死んでいたり生きていたり、自分を知っているはずの人が自分を知らなかったり、違う世界の自分がいたり、そういうのです。
 そういうところを考えるととてもわくわくします。あの世界観が大好きなので。
 世界観萌えの産物でしょうかね、あれは。あとカーシュさまが大好きだった。

 そしてさらに、そう考えだしたら、そういえば私はオリキャラを描いていくうちに、関係性どうののみならず、そのオリキャラ本人の物語をも描きたい!と思うようになっているのだなと思いました。
 メタベイのフェリスがそうです。あれはもともと、正宗に片思いする女の子と正宗の甘酸っぱい話が描きたい!という思いで始めたものでしたが、いろいろあって、フェリスから見たダンジョン、そしてフェリス自身の物語を描きたいと思うようになっていたのでした。

 とはいえ、どんなにごちゃごちゃと御託を並べようが、最終的に「私が萌えるから!!!!!!!」描いているのには変わりません。結論はとても簡単ですね。
 おしまい。

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No.45

‪脳内だけに留めて「在ることにしてる」だけの「物語」なんて、いくらでも壮大っぽく、名作っぽくできるじゃないですか。そんな構想は物語ではなく真におもしろいとは言えない。それ以前の問題。そういう遊び自体は否定しないけど物語を作ったつもりになっているのを見ると不愉快。(真の意味での)次元が違います。
‪そういう心情があるから私はまず創作することを心がけているのですが、私の話ははっきり言っておもしろくありません。でもそうやって評価を下すことができるのも形にしたからです。構想時点では「おもしろそう」「つまらなそう」という予想しかできない、真の価値は形になってから初めて分かります。‬
‪だから創作あるあるの、「頭の中にあるうちは名作なのに形にするとそうでもない」みたいのがすごく嫌いです。それ頭の中で「名作であることにしている」だけ、気のせいですよ。‬

‪物語にとっての一番の不幸って、おもしろくないことよりも描かれないことだと思います。おもしろいおもしろくないは後から付いてくる結果に過ぎない。物語が在るべき姿を描き切られた時点でその物語は幸せ。だと信じて創作をやっています。

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No.43

電車内の化粧をみっともないと思う人が大多数いるなら化粧をしないのはマナーになると思うんだけどな。何を不快に思うかは個人の主観によるものですが。マナーってそういうものでしょう。だから「電車内で化粧をするのはみっともない」でいいと思います。
誰にも迷惑をかけてなきゃいいって言われていますが、じゃあたとえば電車内で服を着替えてもいいんですかってなります。服を着替えても誰にも迷惑をかけませんが、不快に思う人が大多数だから電車内で服を着替えないのはマナーになっています。それと同じことだと思います。
化粧は身だしなみを整えることだから、それを公共の場で行われると不快になる気持ちは理解できます。見たくもない他人のプライベートを見させられている感じです。着替えと一緒。
個人的には化粧をしてる人を見るといやなもん見たなあと思います。粉が飛んでくると最悪。それから自己管理ができてない人だと思います。化粧を家でする時間を作れないなんて。まあそれだけブラックな世界に生きているのかもしれませんが。
誰にも迷惑をかけなきゃ電車内で化粧をしてもいいだろって言ってる人を見ると、その人はマナーを天から定められた絶対的な決まりごとだとでも思ってるのかと思ってしまいます。マナーは個々人の「いやだな」が集まってできる、人が作る、環境と時代によって揺れ動くものですよ。

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No.35

頭の良いキャラは頭の良い人にしか描写できないということには思うところがあって、それはあながち間違いではないけどまるっきり正解でもないと思う。何かを描くには本人がそれを体得している必要は必ずしもない。例えば運動できるキャラを運動できない人が描くことはできる(もちろんできるにこしたことはないけど)。
つまらない物言いにはなるけど頭の良さは一元的ではなく様々な次元がある。計算が速いとか知識があるとか判断力があるとか勘が鋭いとか思慮が深いとか勉強ができるとか論理的思考や理論的思考ができるとか、言い尽くせない程。その中に、自身が体得していないと描けない次元、自身が体得していなくても描ける次元、結果のみは描けるけどそれ以外が描けない(よって描写に信憑性が持たせられない)次元などがある。計算力や知識量は事前に計算したり調べたりすればよいので、自身に計算力や知識量がなくても描ける。判断力や勘の鋭さや思慮深さは創作においては辿り着くべき答えが描く人間に分かっている場合が多々あるので描ける場合がある。勉強については(テストの点数や成績などの目に見える数字や、問題とそれに対応する答えという)結果のみは描けるけどそれ以外(思考過程や学問の本質的な内容や本人の「勉強ができる」故の性質など)は描けない。論理的思考や理論的思考は「思考」と「表現」の間にギャップがない(言語化できる何かを介在する余地がない)のでそれを体得していないと描けない(すなわち、描けているなら体得できていることになる)。
要は結果ありきの頭の良さは誰にでも描けるけど過程ありきの頭の良さは過程を理解している人でないと描けない。終わり。

ちなみに賛否ありそうな「勉強ができる」という頭の良さの次元だけど本質的な理解の伴う「勉強ができる」だったら十分頭の良さの次元たりうると思う。だって学問ができているということだよ。人類の英知だよ。そりゃー頭良いよ。例えば数学について言うと数学は言語力・論理的理論的思考力・判断力・創造力・計算力(これはない人もいるけど)・記憶力(これはいらない人もいるけど)の総結集だからね。これができる人が頭が良くないわけがない。
まあ頭の良さの次元に関しては宗教的な部分もあるから次元の最適性については語るまい。ただ私個人としては「これができなければ本当に頭が良いとは言えない」と言って「頭の良さ」の必要条件を定めることはそれ自体頭が悪いことだと思う。過程を重視するので論理的理論的思考ができる人、数学ができる人が好き♡そして創作(アマチュアの作品とかいう意味合いではない。創作されたもの全般)でよくある、周囲の評価のみでその人の頭の良さを表現するのが嫌い。過程が表現されていなくてもいい、結果だって頭の良さの一つだ。でも周囲があの人は頭が良いともてはやす、それだけを頭の良さの根拠にするのはどう見ても頭の良さではないだろと…(周囲の評価がその人の本質ではないのは人間のどんな性質についても同じだけど)。周囲の評価とその人の本質を混同する、その人の表現を周囲の評価に依存する描写を見るとやだなーと思う。もちろん周囲の評価も、「その人が周囲にどう思われているか」という、その人を構成する要素の一つであるので、周囲の評価を描写することそのものを批判するわけではない。ただ混同する・依存するのが嫌いなだけ。頭の良い描写が伴っていないのに周囲からもてはやされている様子を見ると周囲全員が無能に見える。

頭が良い人は頭の悪い人の気持ちが分からないとよく言われるけどそれも一概に正しいとは思わない。もちろん頭の悪い人はおろか他人の気持ちに全く鈍感なタイプの頭の良い人、いわゆる天才肌みたいな人はいるだろうけど、頭の良い人がそういう人ばかりでないと思うのね。例えば教えるのが上手なタイプの頭の良い人もいる。そういう人の中には他人が、ひいては頭の悪い人がどのような思考をしていてどこでつまずいているのかを想像・理解して、課題の解決方法を指導できる人がいる。他にも、地頭が良くないからこそ、試行錯誤・創意工夫して「頭が良い」に辿り着いた人もいる。そういう人は自分の経験として「頭が悪い」を知っている。だから頭の良い人が必ずしも頭の悪い人のことが理解できないとは限らない。私個人は頭の悪い人の思考過程が理解できない人よりも理解できる人のほうが、理解できることが一つ多いという点ですげーと思う。あと単純に頭の良い人に対する「おまえには頭の悪い人のことは理解できない」という批判が好きじゃない。つまんないじゃんそれじゃ
頭が良いってとっても可能性の広い、素敵な、創作の対象としてとてもおもしろいことだと思うのね。頭の良いキャラ大好き。

余談1)世間では頭の良さに不必要な付加価値を付けがちだと思う。「本当に頭の良い人は他人に優しい」とか。それはただの人の良さであって頭の良さとは独立したものだろう。
余談2)「××でないならば頭が良いとはいえない」とて、頭の良さの必要条件を定めることはそれ自体が頭が悪いことだと思う。前述の通り自分は頭が良いことを広い可能性だと思っているので。十分条件ならありだと。

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No.23

原作が素晴らしいのだから素晴らしい映画になって当然、という傲慢な態度で臨んでいるので、良いと思っても0点(当然のことだから加点対象にならない)、そこから加点や減点をしていく姿勢でいる。不満点を見つけたら減点。加点は、極めて独自性のある追加シーンがあったなど、映像にして良かった!とあえて思えた場合にする。ある程度長さのある原作を2時間の映画にまとめるのは当たり前、必要最低限のことなので加点対象にはならない。(一つの作品として成立させることすらできないなら映画化しなくていい)
聲の形でキャラ萌えはしていないのでキャラが動いて喋るということは加点対象にはならない。将也の声はイメージと違ったし。漫画が至上です。
という人間の書く感想です。ご留意ください。ネタバレを含みます。


▽良かった点
・花火
硝子の自殺のシーンがとてもドラマチックだった。

▽まじで許せない原作との相違点
・「友達」の手話の意味
硝子が手話を使った時点でその意味が分かるようになっていたが、硝子の意図は高校生時代になって初めて分かる形式のほうがよかった。小学生時代の硝子の行動は友達になりたくて行われているものだった、しかしそれは将也には分からなかった(声が届いていなかった)、というのが重要だと思う。
尺の都合もないのになぜわざわざこのタイミングをずらしたのかが分からない。

・殴り合いのときの硝子の笑顔
これなかったら本当にただの殴り合いじゃねぇか!!!
削られて私はかなり怒っている。

・机の上の落書き
硝子が拭く時点で将也の机を拭いていると分かったがこれもマイナス…。硝子の善意を一切受け入れない将也が硝子と殴り合う→後から硝子の善意と真実を知ってショックを受ける、この落差が良いのに。

・告白直前の「私の声、変?」に対する答え
「うん、変」だけで本来その後に続いていた「それでいいから」が削られていたが、これがないとただ将也が硝子を傷つけただけになるし、その直後の告白にも繋がらない。(何でマイナス発言をされた直後に「勢いで」告白するのか?)
「変だけど、それでいい」この発言はさりげないながらも硝子という人間の大きな救いになっているのだから削るべきではなかった。

原作をわざわざ変えるのだからそこに何らかの意図があるのだろうがこれらの変化はただただ原作の良さをなくすばかり。と思う。尺の都合はあるだろうが明らかに不要なシーン(将也がパンの券を捕まえるシーンなど)があるのだからそちらを削ることはできたはず。

▽次点で許せない点
・将也母と硝子母が友達に
二人が友達になるのはそれなりの時間が経ってるからこそ映えるもので、文化祭時点で友達になるのは早すぎでは。無理に入れる必要のないシーンだと思う。

・文化祭で、みんなの×が取れて泣く将也
原作では泣いてないじゃん。分かりやすい感動劇にされたみたいで幻滅した。余韻もくそもない。
作品としてまとめる以上仕方がない面もあるとは思うがんばろうね。
でもだったら原作の良さを歪めてまで映像化する必要はねーんだよ。

原作を好きな身からすると不満点があるが、一応作品としてはまとまっているし、映像や音がきれいでそれなりのクオリティはあった。硝子やマリアがかわいかった。いくつかのシーンでは泣いた。部分的に見れば原作の良さを活かしていたように思う。結論としては観に行ってよかった。

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No.17

作品内での表現以外でキャラや物語に対する「こうあってほしい」という願望を受け手に伝えようとすることはよくないと思っています。
極端なことを言うと、キャラの紹介文も作者の「こうあってほしい」という願望を作中の表現以外で伝えようとすることに他ならないからアウトです。例えばキャラ紹介で「強くて優しい」と説明したとしても、作中の描写がそれにそぐわなければ読むほうは違和感を覚えてしまいます。本当に強くて優しい子であるかどうかはキャラ紹介ではなく実際の(作中の)在り方で決まります。
「創作が興味を持ってもらえるかどうかは事前情報(紹介や語りなど)如何で決まる(だからどんどん語ろう)」という意見を見て、それは一つの事実であるが私の在りたい形ではないと思いました。

とはいえ、客観的な説明のみに止まる事前情報は少しくらいはあってもいいとは思うし、誰かに興味を持ってもらいたくないわけではないので、そのへんの塩梅はまだ模索中です。その結果が、ちょくちょく使っている「脳筋と素直クールの同居もの」という紹介…。
「こうあってほしい」という願望を込めたくは絶対にないので、それっぽい言葉を探して当てはめているだけです。それっぽいしおもしろいっぽいので使っている。気に入ってはいるんですが、凛果は果たして素直クールなのだろうか!?それはまた別の話です。見る方に委ねます。ただとにかく私の言葉は全く気にしないで頂きたいです。そして私の理屈でいけばたかしを脳筋と表することすらもアウトなので本当はやめたほうがいいんですが、これだけは私の主義とか願望を超越してしっくりくるので使ってしまいます。

私の主義を遵守しようとすると、作る人はいっさい喋ってはいけないのではないかと思ってしまいます。そのあたりの塩梅も模索中です。喋りたい!

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No.11

拍手ありがとうございました~!!次も更新がんばります!!

この世にはいろいろな言葉があってそれぞれに好きなんですが、それを通り越して好きで思い入れがある気がする言葉についていくつか語ります。

・ 「かわいい」
やたらに使ってしまう言葉です。
分かりやすく「かわいい」もの、小さい女の子や小動物にももちろん使いますが、ゴリゴリの男キャラにも使います。何にでも使います。
ゴリゴリの男キャラもまるで小動物のようにかわいい!と思っているわけではないのですが、なぜかこの表現がしっくりくるんですよね…。不思議な言葉、かわいい!
そして自キャラに対してもかわいいと言ってしまうことが多いですが、この場合はどちらかというと「愛することができる」という意味合いで使うことが多いです。
様々な意味を内包して様々な場面で使える言葉だと思っています。

・「かわいそう」
こちらもいろんなキャラに対して使ってしまう言葉ですが、かわいそうの場合その意味の違いが自分でも何となく分かっています。
主に二つあって、「本人の責任ではなく境遇が不幸であってそれを悲しむ」、「本人の人間性に問題があって不幸な結果を招いていてそれに同情する」です。
具体例を挙げますと、(※メタベイ爆のネタバレ有)メタベイのゼオは仲が良かった幼馴染の正宗とトビーがいなくなってしまった上に、トビーの病気を治すために交換条件としてアレンジシステムの人体実験に協力したのに、その実験のおかげでトビーがアレンジシステムを受けて別人に変えられてしまうのですが、これは前者の「かわいそう」です。ゼオは一人になっちゃってもトビーのためにがんばってたのに騙されてトビーを別人に変えるための実験の手助けをしていたことになってしまって、かわいそう!なんでこんな不幸な目に遭わなきゃいけないの…ゼオ幸せになって…と思います。
また一方でゼオは、幼馴染の人間的成長を受け入れられない人間としての短所があって、ベイブレードの修行のために遠くに行った…つまり自分から離れてしまった正宗を(本当は好きなのに)恨み、そのきっかけとなった自分とは無関係の人間を「正宗がナンバーワン目指して共に戦うべきはこのおれだったんだ」と恨み、心を病んでいきます。これは後者の「かわいそう」です。ゼオは人間としてかわいそう!たまらぬ!とても人間らしくて好き!
一人でこの二つの「かわいそう」を兼ね備えるゼオは最高のキャラで大好きです。みんなメタベイ爆見よう。
ちなみにリュウキの男キャラは後者の意味でかわいそうなキャラが多くない?と思っています。最初はかっこよくしようと思ってたのになぜかかわいそうになる!ヴァニューシャがいい例です。かわいそうなあの28歳独身男が好きです。
かわいそうなキャラが好きです。深い慈愛の心を持ちたくなります。

・「ささやか」
言葉自体の意味は本来はちっぽけでこぢんまりした感じなのに、なぜかそこに「幸せ」「優しい」「切ない」などの意味を勝手に連想して、「ささやか」ってなんて良い言葉なんだー!と思ってしまいます。すぐに使ってしまう…
自分自身の言葉としても、作中の描写としても使いたいです。
グレンラガンのOPや挿入歌の歌詞の影響もあるのかもしれません。どちらの曲も単純に曲としても素敵だしグレンラガンという作品に付随する曲として最高に素晴らしく作品を盛り上げるものなのでオススメです!!!

・「瞳に吸い込まれる」「吸い込まれそうな瞳」
瞳に対する自分的ベストオブ褒め言葉です。鋭かったりきらきらしてたり何か底知れなかったり、こちらを見てくるそんな瞳に対して「吸い込まれそうな」って使ってしまう。
これは完全にクロノクロスのOPの影響です…。あのシーン大好き。私も吸い込まれたい。
とても好きな言葉なので心の引き出しの中に大切にしまってここぞという場面で使いたいです。「アカシアの花」の中で表現として使いました。よりによってクロノクロスの二次創作でー!やりました!!本望です!!(ちなみに当時はこの言葉に対する愛着をそれほど意識していませんでした。なのに使った私GJ)

・ 「尊い」
 尊いって他のどんな言葉でも代用できない唯一無二の意味合いを持っている気がします。とてもきれいで、貴重で、かけがえのない、あ~~~とにかくそんな素晴らしさが!!
この言葉はとても大切なものなので下手なところでは使いたくありません。めったやたらに現れない、心の底からそう思えるものに出会ったときに使いたい。尊いものは素晴らしい。
作中の描写で使うというより自分が何かに対して感じたときに使うことが多いです。

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No.9

続きです
ネタバレありです

そしてヒカルの碁においてもう一つ、特別好きなシーンがあります。自分が現世に蘇ってヒカルに出会った理由を佐為が悟るシーンです。
佐為は「神の一手」に現在最も近いと言われる棋士、塔矢行洋との対局を果たしました。作中最強クラスのこの二人の対局というだけで大変熱く盛り上がる展開なのですが、その対局に勝ち、やり切った気持ちでいる佐為にヒカルが言います。このときこう打っていたら塔矢名人の勝ちだった。そしてそんなヒカルを見て佐為は悟ります、「私が蘇ったのはヒカルにこの対局を見せるためだった」と。
ヒカルという棋士としてのポテンシャルを秘めた少年を囲碁の道に誘って、そしてハイレベルな対局を一番近い位置で見せ、佐為にも塔矢行洋にも見つからなかった一手に気付かせる。ほんの一瞬のこの気付きのためにこそ自分はここにいたのだと。
このシーンも、楽しいとか悲しいとか、言葉ではうまく形容できない気持ちで胸がいっぱいになります。
ヒカルが気付いた一手は、極限での戦いの行方を左右する、まさに神の一手に近付くための一手でした。これは決してヒカルが二人に勝ったということではなく、塔矢行洋と向かい合って佐為の示す手を打つという特異な位置にいたからこそ気付けた、奇跡のようなものだったのだと思います。それでもこの対局と気付きはヒカルを大きく成長させました。このたった一瞬のためにこそ囲碁をやっているのだろう、というその重みを強く感じることができました。
佐為の、あくまで自分ではなくヒカルがこの一手に気付くために自分はここに甦らされたのだという悟りは一見残酷なようですが、一人ではできない囲碁の道の在り方がここでも表れています。こうやって人々が関わり合ってこそ囲碁の道が出来上がって腕前が高められていく。一人一人の棋士が必要不可欠な存在である。その在り方がこの作品ではこんなにも強くドラマティックにえがかれていて、だから私はヒカルの碁が好きです。

「一瞬のために全てはあった」感が私はとても好きです。学問でも芸術でもスポーツでも、ほんの少しの前進のために膨大な時間、手間、労力、金銭をかける。しかし前進や成功が必ずしも約束されているわけではない。それでその道から離れてしまう人もいるけれど、それでも離れられずにもがき苦しみながら進もうとがんばる人がいる。がんばってがんばってがんばったその先に掴める何か、一瞬の何かを探している。その一瞬は確かに投じたコストに見合わないほんのささいなものなのかもしれないけれと、本当はそれこそが何物にも代え難い尊いものである。そういう感じがとても好きです。
これがヒカルの碁ではありありとえがかれています。とても素敵です。感動します。

長々と書きましたが、結論としては「ヒカルの成長する展開がドラマティックでおもしろい、熱い」「囲碁の道の描かれ方が好き」「伊角さんが好き」「一番好きなシーンがやばい」です。
また、いろんなキャラが出てくるので気軽にキャラ萌えも楽しめます!どのキャラも個性的で魅力があって、この作品における囲碁の世界を形作っています。院生時代の仲良しトリオ好き~!かわいい!
主人公・ヒカルとライバル・塔矢アキラとの関係もとても独特で好きです。ヒカルの中にいる佐為の強さに魅せられて、ヒカル(佐為)を追うアキラ、そのずっと下からアキラを追うヒカル。そして17巻にしてようやく主人公とライバルの初対局が実現し、その中でアキラがヒカルの中にいる佐為の存在に気付く。この展開は熱いし感動します。それまでヒカルしか知らなかった、ヒカルの中でしか存在し得なかった佐為が、囲碁を通してその存在をアキラに気付いてもらえた。佐為を失ったヒカルが辿りついた答え、「自分の打つ碁の中で佐為は生き続ける」が、これでもかとばかりに描写されます。このシーンも本当に大好きです。

余談ですが、私は読む前はこの作品のタイトルを「ヒカルの墓」だと勘違いしていて、すげー漫画だな…と思っていました。

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No.8

自己紹介の好きなもの列挙ページにせっかく「人生レベルで好き」という分類があるので、まずはここにある作品から語ることにしました。というわけでヒカルの碁です。ヒカ碁大好き!!!!好き過ぎてたまに発作が出ます。
拍手ありがとうございました~!とても嬉しいです!!

ネタバレありです

主人公ヒカルが非日常な出会いをして、作中最強レベルの佐為の力でヒカルにとっては格上の相手をばったばったとなぎ倒していく爽快感、そして自分自身囲碁に惹かれ学校の部活、院、プロの世界と舞台を変え様々な人と出会いながら成長していく熱さを兼ね備えた、「囲碁」という珍しい題材を扱ってはいるものの実に少年漫画らしい漫画です。丁寧に描かれた囲碁の世界はとてもリアルなのですが、その中に佐為というひとさじのファンタジー要素がきらりと光る塩梅が絶妙で魅力的です。
ヒカルを囲碁の世界に引き込んでくれた、ずっと一緒に囲碁をやってきた、そんな佐為との別れを経てヒカルが自分自身の囲碁、「ヒカルの碁」を始める展開が本当に好きです。この漫画のメインだと思っています。

一番好きなキャラは伊角さんです。初登場時のどう考えてもモブな顔から漫画が進むごとにだんだんとイケメンになっていく変化、初期のよく分からない私服、第2回人気投票伊角さんぶっちぎり事件といったネタ要素も含めて好きですが、何よりもその人間性と作中の活躍が本当に素晴らしい。
伊角さんは、気さくで面倒見がよくてまじめで優しくて院生1位の実力を持つ、人としてかなり好印象を持てる人物です。だけど院生1位であるにも関わらずなかなかプロになれない欠点を抱えていました。それは結論から言うと心の弱さ故だったのですが、この点の描写が本当にリアルでドラマティックで読んでいて大変心を動かされました。
自分より後から囲碁を始めたヒカル、院生仲間として楽しく過ごしてきたけれど、近くでその成長を見守ってきてその目覚ましさに不安を抱く。そして迎えたプロ試験。ここの緊張感はやばい!時間をたっぷり使って堅実に局面を進めていたけれど、対局直前の他人の言葉(ヒカルの強さを説明する内容)への動揺がヒカルへの不安を後押しし、心惑うままに打つ手を間違え、反則をし、絶望して自ら投了して対局を終わらせる。この…ほんの短い時間が長く思われる感じ、まるでスポーツ漫画のようです。ドキドキしました。
人として優れているお兄さんな伊角さん。そんな伊角さんの抱える深刻なこの欠点、そしてしでかしてしまった大きな失敗、落ち込みが、彼の人間らしさを表していて、キャラクターとして最高に魅力的です。
でもそのままでは終わりません!プロ試験に落ちた伊角さんは中国に渡って修行をします。そこで出会った人から「感情のコントロールは習得できる技術だ」と教わって、心を落ち着けて対局に挑むことができるようになります。この成長が本当に熱い!
そうして自信を取り戻した伊角さんは、日本に戻り、再戦をするためにヒカルに会いにきました。自分の気持ちを言葉にして、ここからスタートしたいと言う伊角さん。

そしてこのときのヒカルこそが、佐為を失って心折れ、囲碁をもう打たないと決めたヒカルでした。佐為は素晴らしい棋士だから、俺なんかが打たなきゃよかった!全部あいつに打たせればよかった!と叫んで、囲碁から離れてしまった。このシーンもやばいです…!悲しすぎる!
でも伊角さんがどうしてもヒカルと打ちたいと言うから、伊角さんのために義理で打つだけ、と言い訳してヒカルは伊角さんとの対局に臨みます。そして打つ中、囲碁の中に「佐為」を見つける。ずっと一緒にいたのにいなくなってしまった、どこにもいなかった佐為がこんなところにいた。おまえに会うためのただひとつの方法は打つことだったんだ。それに気付いたヒカルは涙ながらに「俺は打ってもいいのかもしれない」と伊角さんに告白する。「ヒカルの碁」が始まった一瞬。
佐為を碁の中に見つけるシーンではありますが、それと共に、おそらくここでヒカルはやっと佐為の死を受け入れたのだと思います。佐為はもうどこにもいない。ただ、彼が自分に残してくれたものが自分の打つ碁の中にある。碁を打つときにだけ彼にまた会うことができる。自分が碁を打つことで佐為は生き続けることができる。佐為がいなくなった今、だからこそ、ヒカルはヒカルの碁を打って生きていく。
このシーンが、ここに至るまでの展開が、私はヒカルの碁の中で一番好きです。熱いとか切ないとか悲しいとか優しいとか、どんな言葉で形容したらいいのか分かりません。ただただ感極まって涙が出ます。とにかく好きです。
このシーンがヒカルの碁という作品の集大成で、これのために以前のすべての描写があったのではと思えるくらいです。

一度折れたヒカルを立ち直らせるきっかけとなった対局の相手が伊角さんだというのがまた好きな点です。ここは賛否両論(伊角さんみたいな脇役を出張らせすぎ、など)あるみたいですが私は好きです。
確かに伊角さんは脇役ですが、彼も囲碁の道に関わる一人の棋士です。ヒカルの相手が伊角さんだったことで、たくさんの人々が関わり合いもがきながら「神の一手」を追求していく、というこの漫画におけるテーマが如実に描かれていると思います。
また、このエピソードの直前の巻が伊角さん修行巻となって、これも同じ理由で賛否両論あるみたいですが、やっぱり同じ理由で私は好きです。主人公だけでなく他キャラにも物語があって失敗や再起を繰り返して成長していく様子が描かれているところにテーマを感じます。この伊角さん巻はヒカルの再起のための準備巻である必要な巻で、ここの描写がある程度長いものであることが物語の構成をよりおもしろいものにしていると思うし、何よりも主人公の成長のために丁寧な描写をしている点がとても好印象です。

続きます
ところで、この記事を書いていたら囲碁ソフトが九段を破ったというニュースを耳にして、いたく感動しました。ヒカ碁を読んでいた当時は、囲碁だけはコンピュータが人間に勝てないと言われていたのに…。人類の英知の結晶ですね。コンピュータも、そしてそれと渡り合う九段も凄いです。人間とコンピュータ(を開発する人間)、どちらにもがんばってほしい。
個人的には、このニュースの記事で囲碁ソフト製作者側の方が「(囲碁ソフトの腕前の確認ができるのは、といったような文脈で)九段のような天才のおかげだ」と語っていたのがとても好印象でした。そう、囲碁を打つには2人いるんだよ…!等しく才たけた者が2人!!

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